誰でもいつかはライ麦畑を出ていかなければならない
J.D.サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』、この名高い世界文学、未読だったので、目を通してみた。この手の名作には必ずある、巻末の訳者解説が、野崎孝訳の白水社のこの本にはない。そうした、いわゆるアンチョコがないので、読んだ感想を素直に綴れることができる。
インチキ野郎と俗物だらけの世間
舞台はアメリカのニューヨーク。17歳の高校生の主人公が単位を落とし、寄宿制の名門高校を退学させられてしまう。それを学校から告げられ、実家に戻るまでの数日間の独白物語である。
放校の事実を父親に知られるとひどく怒られる。時間稼ぎをするべく、ホテルに泊まり、夜の町をふらつき、バーで声をかけた女性たちと踊ったり、ガールフレンドに電話をかけ、翌日、一緒に映画を見に行ったりする。その模様が一人称で語られる。
学校の同級生たちは、学校の勉強を立身出世のための道具としか考えていない「インチキ野郎」ばかり。知的好奇心があるというわけでもなく、興味があるのは、女の子と酒とセックスのみ。いわゆる俗物だらけだ(主人公もその俗物性を完全に免れているわけではない)。教師も似たり寄ったり。よくある話だ。
主人公の父親は弁護士で、一家はそれなりにいい暮らしをしている。兄貴は脚本も書く作家で、主人公には小学生の妹がいる。2歳下に頭脳明晰な弟もいたが、白血病で亡くなってしまった。
セックスと死が通奏低音に
物語の通奏低音となっているのは、セックスと死だ。主人公にも憎からず思っている女の子がいるが、性的関係は結べていない(それどころか、寮で同室の同級生に横取りされてしまう!)。しかも、主人公は童貞であり、宿泊したホテルで、エレベータボーイから売春婦をあてがわれる破目になるが、気持ちが萎え、彼女を自室から帰してしまうのである。
主人公は外の人間にはきついくせに、父親以外の身内には甘い。妹思いのいい兄貴だ。若くして亡くなった弟にも強い思いを馳せる。
死といえば、同級生から苛められ、校舎から飛び降り自殺をした同級生もいた。その彼は主人公が貸したタートルネックのセーターを着ていた。
主人公の言動は妙に冷めており、老成している。実際、頭には若白髪がごっそりある。死へのあこがれのような、投げやりな態度を言動の底に感じる。
村上春樹訳の「キャッチャー・イン・ザ・ライ」
表題の「ライ麦畑でつかまえて」だが、それは主人公がなりたい「夢」なのである。広いライ麦の畑があり、そこに何千という子供が遊んでいる。その畑の周りは崖になっており、そこから落ちたらとんでもないことになる。主人公は、その崖から転がり落ちそうな子供を見つけてはつかまえて助ける役をやりたいのだと。キャッチャー・イン・ザ・ライである。
その崖下に広がっている空間こそ、主人公はもちろん、今は畑で遊びまわっている子供たちも将来的には身を置かざるを得ない、俗物だらけの世間というものではないか。どんな人間もライ麦畑に永遠にいられるわけにはいかないのだ。
着想といい、書きぶりといい、評判違わぬ青春文学の金字塔といえるだろう。
本書をひもとく以前、タイトルから想像し、ライ麦畑でつかまえてほしいと主人公が考えているのだと思ったら、違っていた。同じ白水社で、村上春樹による翻訳が出ている。タイトルは「キャッチャー・イン・ザ・ライ」。こちらは原題である。読み比べてみたい。