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「水を光に変えた男」福沢桃介に学ぶ不屈の闘志と人間力 その1

この1月、私が上梓したのが『水を光に変えた男 動く経営者、福沢桃介』(日本経済新聞出版)という単行本である。明治大正期に活躍し、木曽川流域に7つの水力発電所を開設、電力王と呼ばれた実業家、福沢桃介(1868~1938)の生涯を描いたビジネス小説だ。
現代のビジネスマンが桃介の生き方から何を学ぶべきか、3回にわたって、書いてみたい。なお、上記の画像の出典は、国立国会図書館の「近代日本人の肖像」による。

窮すれば変ず。変ずれば通ず:決して諦めない「生き方」

筒の中に入り、抜けなくなった鼠

福沢桃介が手掛けた木曽川流域の発電所やダムは竣工して約1世紀が経過した今も、現役で稼働している。33基ある発電所のうち、7つを桃介が手掛けた。当時の保有者は、桃介が初代社長をつとめた大同電力だったが、1939(昭和14)年施行の電力国家管理法で同社は消滅してしまい、現在は関西電力が持ち主となっている。

本作を書くにあたり、発電所やダムをいくつか見学させてもらった。いずれも人工物だが、木々の深い緑と木曽川の青い輝きにみごとにマッチし、一幅の風景画を見るような感がある。

執筆が終わり、完成した本を、現地を案内してくれた担当者に送ったら、御礼がしたいという。何かと思ったら、何と桃介直筆の書を贈ってくれた。
長さ2メートルほどの掛け軸で、そこには「鼠入銭筒伎已窮」と達筆で記してあった。禅語で、「ねずみせんとうにいってわざすでにきわまる」と読むらしい。

銭を入れるための細い筒に鼠が入ったところ、すっぽり挟まり、出られなくなった。頭も動かないから、鋭い前歯も使えない。脱するには、待つしかない。ご馳走を食べて膨らんだお腹がへこみ、身体が動くようになるかもしれない。通りかかった誰かが筒を取り上げ、振ってくれるかもしれない。事態は必ず動く。それにあわせて自分も動けばいい。

この書を目にして、私ははたと膝を打った。というのも、桃介の生涯がまさに「銭筒に入った鼠」を繰り返していたからだ。

死の病にかかり、相場師になる

最初の“銭筒”、すなわち障害は、病気だった。肺結核であり、当時は死の病である。25歳のときである。

それまでの桃介の生涯は順風満帆。埼玉の貧農の家に生まれたものの、その秀才ぶりが認められて慶應義塾に通うことになる。塾の運動会の徒競走で、ライオンの絵が背面に描かれたシャツを着て走り、たまたまその場を見物していた、塾の創始者、福沢諭吉の妻の目に止まり、桃介のイケメンぶりも手伝い、とんとん拍子に、諭吉の二女との結婚が決まった。

桃介が諭吉の養子となる結婚を承諾したのは、「欧米に留(遊)学させる」という条件があったからだ。

入籍後、念願の渡米が実現し、約3年過ごして帰国すると、これも諭吉の口利きで、北海道炭礦鉄道に破格の高給で入り、昼も夜も関係なく、仕事に邁進していた矢先のことだ。

桃介は絶望した。たとえ死を免れたとしても、これまでのように働けないから、貯金はなくなるばかり。ただでさえ肩身の狭い養子の分際、岳父の諭吉に頼るわけにはいかない。

そこで覚えたのが株だ。数字が得意で、世の趨勢を見極める予測眼と情報収集力に長けた桃介は、病床にありながら、その世界にどっぷりはまり、大金を手にする。

病の癒えた桃介はサラリーマンは自分には合わないと、自分の会社をつくる。社名は丸三商会だ。三菱の菱や三井の井桁の代わりに、トレードマークを丸にする。三丸だと座りが悪いから丸が三つの丸三。社員二人のちっぽけな会社だったが、三菱三井に負けるものか、という気概が伝わってくる。

人間として信用絶無、と判断され、会社倒産

ところがここにも“銭筒”があった。ある大口の新規顧客が桃介の評判を興信所に探らせたところ、「相場好きで、人間としての信用絶無。資産もほとんどなし」という結果が出、それを鵜呑みにした顧客が前金払いという条件をなしにしてくれ、と言ってきたのだ。そうなると運転資金が枯渇してしまい、丸三商会を畳まざるを得なくなる。

興信所の社長は同じ慶應の後輩で、酒席もたびたび伴にした間柄。それなのに……。桃介はまたもや絶望した。岳父、諭吉のもとに相談に行くも、俺の大嫌いな相場をやっているだろう、と逆に大目玉を喰らう。せっかく船出し、これから風を受けて大洋に漕ぎ出すところだった自分の会社を潰してしまうのである。

その後、諭吉が逝去したことで、養子というくびきから脱した桃介は相場師として名を馳せ、「兜町の飛将軍」という異名を取る。

その株で稼いだ金が次の行動の原資となった。実業界への進出、具体的には電力会社の経営だ。そして、当時勃興しつつあった水力発電を手がけたいと強く願った。

木曽川の水力開発に対し地元から反対運動が起こる

株を購入して名古屋電燈の経営に参画すると、木曽川の水力開発に邁進し、発電所をいくつもこしらえようとした。

なぜ木曽川か、といえば、水量豊富なうえに、流れが急で落差が大きい、水源豊かで容易に枯渇しない、名古屋という電力の大消費地に近いという、水力発電に好適な条件をいくつも兼ね備えていたからである。桃介が唱えたのが一河川一会社主義。木曽川の水力開発はすべて名古屋電燈が行う。いわば本物の木曽川の横にもう一本、発電のためだけの水流をつくり、その流れのエネルギーをすべて電気に変えるという発想であった。

そのプロセスで、新たな問題が発生する。木曽川を生活の場として使っている地元民が反対の声を挙げたのだ。川がいじられると、魚が採れなくなるし、地域の一大資源である木曽檜を下流まで運搬する手段が失われてしまうと。

名古屋電燈と福沢桃介を産土(うぶすな)の侵略者、簒奪者と見なす反対運動のリーダーが、『夜明け前』などの文学作品で知られる島崎藤村の実兄、島崎広助だった。木曽川流域の町村長15名も味方につけた反対運動への対処に手を焼くが、最終的に、島崎広助と町村長らを分断する工作が実を結び、莫大な補償金の支払いと引き換えに、桃介の木曽川開発は命脈を保つことができた。

このように、桃介はたとえ銭筒状況に陥っても、あわてず騒がず、解決策を講じ、動く。転んでもただでは起きない。

つくった電気が売れぬなら、他で売る

桃介が直面した銭筒状況がもう二つある。

需要に合わせて電気をつくり供給するというやり方ではなく、電気を供給すれば需要が生まれる。すなわち産業が勃興するはずだと桃介は考えた。名古屋を一大工業地、東洋のマンチェスターにする、というのが口ぐせだった。
それに対し、名古屋の財界人が大いに反発する。尾張名古屋は歴史ある立派な地、外から来てかき回すのはいい加減にしてくれ、というわけだ。桃介は山師、香具師(やし)とまで言われてしまう。

そこまで嫌われた桃介は奇策を実行する。大阪送電という会社を設立すると、木曽でつくった電気を遠く京都と大阪まで運んでしまうのだ。常人は真似できない、神人のような発想と行動力である。

金を借りてやったのだから、ありがたく思え

木曽川開発は、当時東洋一と言われた大井ダムと附属の大井発電所の建設で最高潮の局面を迎える。するとそこに関東大震災が起こり、建設資金が枯渇してしまう。馴染みの銀行や個人資産家に頼み込んでも、「貸せる金はない」の一点張りだ。

桃介はここでも奇策に出た。外債を発行し、金余りのアメリカからその金を引き出そうというのだ。

桃介自らニューヨークに出かけ、外債を引き受けてくれるという投資銀行との直接交渉を行う。みごと話がまとまり、当時の日本の国家予算の2%近い1500万ドルもの融資に成功する。

ニューヨークでの最後の晩、関係者への感謝を込めて酒宴を開く。その冒頭で、桃介がスピーチに立つ。桃介はそのスピーチをこんな言葉で終えた。
「貴国は世界中から黄金を引き寄せているが、黄金というものは取り過ぎると毒にもなる。私はその毒を取り除くべく、はるばる極東からやってきた。あなた方は私に頭を下げ、謝意を表してもいいのではないか。日本はこのダムができたら必ず豊かになる。今度は金を貸しにやって来ますぞ」と。

元大統領も同席したその場は拍手と笑い声で満ちた。桃介は肝心の場面で、こうしたユーモアに満ちた毒舌を吐ける肝っ玉の据わった男だった。

人生は銭筒、すなわち想定外の連続である。それに対し、深くため息をついてやり過ごすか、その想定外こそ、物事が大きく動くきっかけになると考えるか。桃介は「自力更生」という言葉を何より気にいっていたという。

易経に「窮すればすなわち変じ、変ずればすなわち通ず」とある。行き詰ってどうにもならない状態まで追い込まれると、案外うまく切り抜ける道が見つかるものだ。桃介の生涯こそ、この言葉を体現している。

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