自己療養の営み
僕は往々にして、自分と相手の感情をなかったことにして物事を考える癖がある。特に誰かと一緒にいる時に、それは起こりがちである。
強がりの一種なのか、そう考えることで自分は特別であるとアピールしたいだけなのか、どちらにしたって、あまり褒められた行為ではない。
でも、そうすることでしか生きてこれなかったのだ。
家庭内では姉と母が毎日のように激しい喧嘩を繰り返し、希望の光である父親は毎日夜中の2時に帰ってくる(帰ってきてもほとんどの喧嘩は放置される)。
こんな状況で、誰に助けを求めろというのだ?
姉に手がかかる分、僕は静かにしてくれててありがとね、って母に言われて、誰が手のかかるような行動ができただろう?
誰に相談したらよかったんだ?
僕は小学校2年生ぐらいから、母親に年に数回ほどしか話しかけない人間になっていた。
例え構って欲しくても、母と姉に気を遣ってしまい、結局自分で自分を満たすしかなかった。でも、どこか埋まらない感覚が常にあった(今もある)。人との関りでしか満たせない何かが、人間にはあるのだ。
今でもこの寂寥感は引きずっている。
そしてそれは自信のなさにつながり、人との交流をより一層難しくする。
はい、一見なんともない普通の、だけどどこか変わった子供の完成。
別に人と関わりたくないわけではない。
けど、関わろうとしても、この人には何言ったって分かってくれないんだ、の気持ちが勝る。
無力感?諦観?
これは僕の悪い面。どうやら僕は僕の悪い面を観るのが大好きなような。
大好き、というよりは、気になって仕方がない、の方が近いかも。
自分の弱点をさらけだすことは、僕に構う必要があるということ
=僕が生きてきたゲームのルールに則ると、ゲーム・オーバーなのだ。
そうだ、僕は人に構われるのも苦手なんだよね。
人から注目を集めていたり、自分の行動を見ながら誰かが評価したり、自分の意見を話したりすることが、とても苦手だ(面接は苦痛以外の何物でもなかった)。
どうして自分の意見を言うのが苦手になってしまったんだろう?
あまり意見を持たずに生きてきたから?
人の注目を集めることを、成長過程(家庭)で練習してこなかったから?
まあプレゼンとかを通じて、見られることに関しては克服しつつあるので、そこは自分頑張った。
友達との交流の場面だよね、大変なのは。
思ったように交流ができないことがある。
んー、でもこれも思い込みなのかなぁ?
コミュ力低いんだよね、って友達に言うと、え!そんなことないよ!
ってばっかり言われるから。
周りからは別にコミュ力が無いとは思われていないのかも。
じゃあ、この胸の内にある寂寥感の正体は?
整理しよう
・自分の意見を言わないようにして生きてきた
・胸を寂しさが占めている
・自分の意見を言うのが苦手だと思っていた(解決済み?)
・コミュ力がないと思っていた(解決済み?)
コミュ力や自己主張の問題ではなく、寂寥感の問題。
あとは、自信も足りてないかも。
自分が人と関わっていいんだと思える自信、友達を遊びに誘ってもいいんだという感覚、自分は遊んでいても面白くない人間だと思ってしまっている、お洒落をする勇気がない、大人数でのお話に参加できない。
そうだ、自分から誰かを喜ばせる、楽しませる経験やスキル・自信が不足しているんだ。
次の目標はそこだ。