糞尿の物質的循環に関する素人考
はじめに(野糞に刮目せよ)
『うんこと死体の復権』という映画を観た。
人糞やら死肉を漁る虫やらを主役として、それらを堂々と映像にし、しかもアップにまでするサービス精神には恐れ入った。自然の中に当然としてある循環から目を背けずに向き合おう、という趣旨をきれいごと抜きに映し出すその意気には喝采を送りたい。
実際、非常に新鮮なドキュメンタリーであり面白い映画であった。特に以前から著作を読んで知っていた伊沢正名氏の数十年にわたる野糞へのこだわり、また紙の代わりの葉っぱをうれしそうに語る様や、うんこの出来栄え(?)を語り合う様はなかなか面白かった。
ただしひとつだけ気になったことがある。
「では我々はどうするのか」。
こういった作品で啓蒙をするのはよい。しかし「考えさせられた」の感想より今一歩先に進みたくはないか。
啓蒙とともに「さぁ、こちら側に飛んでおいで」というだけでは世の中の大多数には響きづらい。一瞬だけ響いたとしてもその行動はなかなか変わらないのが通例ではないか。
大多数の人を巻き込んで大きな変化を起こしたい場合は、啓蒙と同時に大多数の人が渡ってきやすいように、周到に小さな階段やスロープを作っておき、大きなジャンプを強いない工夫が必要だと考えるのである。すなわち段階的な移行に向けたデザインを、素人ながら模索したいと考えているのだ。
問題の定義を試みる(いったん野糞から離れよう)
問題を、少々おおざっぱながら定義してみる。伊沢正名氏の映画の中での発言を、簡単にしてみた。
「土に還せば価値があるはずの糞尿を、資源を使って燃やしてしまっている」
この要約は下記の記事内容と照らしても間違っていないと思う。記事の写真、野糞しながらいい笑顔である。
裏返せば「現在資源を使って処理している糞尿を、土に還して動物や微生物に役立ててもらうべき」という主張ともいえる。
現状を正しく理解する(政府方針と統計から)
先ほど出てきた問題の前提がはたして正しいのかどうかを理解したい。
「資源を使って燃やしてしまっている」は正しいのか。
うんこの終着地の親玉がなんて言っているのか見てみましょう。
国土交通省が2023年(令和5年)に各自治体の下水道担当部署に宛てて以下の方針の通達を行っている。
ここで出てくる汚泥とは下水の汚れを分解する微生物によって構成されるもので、下水処理にともなって発生してしまうものである(廃棄物として処理が必要)。
(以降、現代のシステムを考えるにあたっては、全国的に人口ベースで多数を占める下水道を念頭に話を進める。すなわち浄化槽などはいったん除外する)
・下水道管理者は今後、発生汚泥等の処理を行うに当たっては、肥料としての利用を最優先し、最大限の利用を行うこととする。
・焼却処理は汚泥の減量化の手段として有効であるが、コンポスト化や乾燥による肥料利用が困難 な場合に限り選択することとし、焼却処理を行う場合も、焼却灰の肥料利用、汚泥処理過程でのリ ン回収等を検討する。
・燃料化は汚泥の再生利用として有効であるが、コンポスト化や乾燥による肥料利用が困難な場合 に限り選択することとし、燃料化を行う場合も、炭化汚泥の肥料利用、汚泥処理過程でのリン回収 等を検討する。
方針としては、「汚泥はなるべく燃やさない、なるべく肥料として使ってください」と言っているようである。
つまり方針においては、「人間の糞尿は微生物に分解して、分解によって出てくる微生物のかたまりはなるべく肥料にしましょう」と読めてしまう。
方針はあくまで方針である。データを確認しようと思う。
言いっぱなしで守られない方針、みなさんは覚えがありませんか。私はあります。なのでデータを見ます。なお、政府や自治体の統計に関する懐疑的な陰謀論はここでは扱いません。
以下、一例として宮城県のデータを用いる。宮城県を選んだ理由は、処理したものの行く先が具体的かつ詳細に記載されているからである。
残念なことに最新で2016年度とデータが古いが、おおまかな傾向はつかめるだろうと思う。
同統計データの2014年度から2016年度を見ると以下のことがわかる。
・脱水後汚泥に対して、焼却等により約75%ほど減量されている
・焼却などによる減量の後に残った分のうち、80%前後が脱水汚泥として有効活用され、10%程度が焼却灰(一部有効活用される)、残りはその他処理となる。
![](https://assets.st-note.com/img/1725068919940-S5uymnR9TJ.png?width=1200)
有効活用される汚泥の例も宮城県は紹介している。汚泥は法面緑化材として利用される。平たくいえば土壌であり、開発によってできた斜面の緑化のための土壌になるようだ。なお、焼却灰はアスファルト合材になるらしい。
宮城県の例からは、我々の糞尿が分解されることでできた産物たる汚泥は、減量のために一度燃やされているものの、多くは肥料分を多く含む基盤材として有効活用されていることがわかった。
一方で、我々の糞尿の処理の過程で、下水処理施設の運転のほか、汚泥の減量処理にも燃料等の資源を使っていることもわかる。
(なお記事の末尾により新しいデータのある、全国的な統計をまとめた資料を掲載しようと思う。しかしここで紹介した宮城県の統計は用途や内訳が明確・詳細に記されていてよかった。反対に、たとえば国土交通省の資料で記載されている「農地利用」などは肥料などでの活用と推察はできるものの、少々わかりにくかったし、東京都のデータは「リサイクル率」など間接的な指標ばかりで事実としてのデータがつかみにくかった)
順番がやや前後したが、一般的な汚泥の処理工程は以下にまとめられている。
再度問題に立ち返る
現状を踏まえて問題に立ち返りたい。
下水で処理された糞尿を燃やしてほとんどすべてを埋め立てて、という時代はすでに終わりつつあるようである。
しかし、もし、燃料を全くまたはほとんど使わない循環を目指すべきだ、もしくは冒頭の映画が示唆したように、野糞によってその場所の里山の動物の糧となり豊かな生態系に貢献することを目指すべきだ、という理想を掲げると、現状はその理想にははるかに遠い。
では我々はどのように変わりうるのか。
現状の処理方法からどのように糞尿処理を変えうるのかを考えたい。
将来の糞尿循環の姿の類型を考える
糞尿の処理の可能性を考えるうえで、2つの軸を考えた。
(このパートは読み飛ばしても良い)
1つは糞尿の分解・処理が行われる場所の分散的・集約的の違いであり、もう1つは分解プロセスで使われる技術・仕組みの自然的・人工的の違いである。
例を挙げれば、伊沢正名氏のように裏の里山で野糞をする、というのは個人が自分の場所で行うので分散的といえる(伊沢氏の裏山は弟子や共感者が共同で野糞場所として使うのでやや集約されてもいる)し、またプロセスは自然に還す形なので自然的である。ゆえに分散的・自然的アプローチといえる。
一方で我々が親しんでいる現代の下水道処理は、集約的・人工的アプローチである。
もちろんこのような単純化した類型以外の切り口もあろうし、この軸の中でも中間的なものが存在しうるはずであるが、まずは思考の切り口として上記の分類を試みた。
なお分解・処理の分散・集約については、糞尿が利用可能な形になるまでの過程とする。ゆえに自然的・人工的のいずれかによって意味合いが異なる。自然的な方では糞尿そのままで利用可能といえるし、人工的な方では肥料等に利用可能なまでに加工された状態になるまでの過程で判断する。
また何をもって自然的・人工的とするかであるが、人間が用意した処理場所で人間が選択した分解者で分解されることを人工的とした。
下記のマトリクスで示したようにこの分類では2x2の4類型が存在する。
![](https://assets.st-note.com/img/1725071221164-RjSOMV13Z1.png)
(1)分散的・自然的アプローチ
・いわば野糞的なアプローチである
・都市部においては人口に対して自然の分解能力のキャパシティが圧倒的に少ないため人口の分散ないしは緑地の増加が必要になる
(2)分散的・人工的アプローチ
・広く普及してはいないがコンポストトイレなどが該当する。なお戸別の浄化槽は糞尿の分解は分散的だが、浄化槽にたまる汚泥は個別処理されていない(業者に回収依頼・施設で処理)ので該当しない
・分散しているがゆえに複雑な装置などを導入して人工的に分解し有効利用する仕組みを構築する場合には高コストになると思われる(集約のメリットを活かせない)
(3)集約的・自然的アプローチ
・集約された糞尿をそのままの場所で土に還すような形ではその場所の自然の分解能力を超えてしまうため、少なくとも何らかの方法でより広い地域に分散して分解させる輸送(ロジ)が必要になる
・江戸時代などの都市部から農地に運ばれた下肥は近いものとして考えられる
・あくまで自然的分解のため糞尿は輸送される際も糞尿のままであり、それがゆえに衛生面の対策が大きな課題となる
(4)集約的・人工的アプローチ
・現代の下水道システムと汚泥処理が該当する
上記(1)から(4)まで概観してみたが、各々そこらへんで土に還す野糞である(1)と、近代らしい発想で処理している現代の方式(4)の、どこか中間的な、折衷的な方式を模索したいものである。
元の問題意識からの観点からいえば、土(ないしそこに住む動物や微生物)の分解力を活用した形にできればより望ましい。しかし(1)ですでに述べたように人口密度は大きな障壁である。分解能力以外にも問題はある。人が集まれば治安リスクも増える。人目を逃れられる繁みなんぞは治安上の問題スポットに他ならないのである。大規模な人口移動と都市解体の話になれば、トイレだけの問題ではないので、社会全体で完全に自然的な形での土への還元を目指すことは現実的にはもう諦めるほかないと理解する。
ゆえに上記に(2)ないし(3)が代替として考えられる。現代の衛生基準では上述のとおり(3)は難しいと思われる。
先進的事例を(軽く)調べる
手っ取り早くWeb検索やChat AIに訊いてみた。なぜ調べるのが「軽く」なのか。根気がないからである。
調べるとやはりコンポストトイレ、バイオトイレが挙がってくる。これは前述の4つの分類で考えた結果とも整合する。国内での事例は山間部の施設や被災地が多く住宅地での例は少ないが、海外では欧州などのエコ・ヴィレッジ、エコ・コミュニティでコンポストトイレを集合住宅に導入している例がある。
他には、バイオガスプラントの取り組みは家畜の糞尿で行われているようである(ただしこれは土に還すという形にはならない)。
コンポストは糞尿を直接分解する以外の使い方もある。濃縮・消化・脱水を行った後の汚泥をコンポスト化して肥料利用する。脱水後にある乾燥や焼却の工程を経ないためより省エネルギーといえる。
また、直接的な代替システムではないが、より水資源を使わない方式としてのゴミや排泄物の真空輸送、また効果的に分解を行うために尿と糞を分離することの重要性を学ぶことができたのは今回調べた中での収穫であった。
次世代システム普及にあたっての課題
次世代のシステムに「これだ!」というものがない中で先走って課題を考える。頭が暇か。
どんなシステムにせよ、以下は共通して課題になってくるのではないかと思う。
・人々のトイレ観の問題
水洗トイレこそが文明的という考えの打破である。特に水洗化前の時代を知っている人には、水洗以外のトイレへの忌避感は強いだろう。対応策としてはイメージ戦略もさることながら、公園など多くの場所で新しいシステムの設置を進め、慣れてもらうしかないと考える。
・新しい方式の正しい理解と利用
分散的な処理、また自然的な分解になると水洗トイレほど適当な扱いを許さなくなる可能性がある。コンポストトイレなら、微生物を弱めるようなものはトイレに流せない。場合によっては住民共同でメンテナンスが必要になるかもしれない。現代の下水道普及地域の水洗トイレは、何を流しても大規模な処理施設がその負担を負ってくれる(配管を詰まらせればもちろんその人の負担になるが)。新しい方式では、その方式に合った使い方を学んでいく必要がある。
この意識は、環境の持続可能性以外の観点からも重要である。今後、人口減少にあった社会インフラの老朽化・減退が見えている社会に住む我々にとって、自治・自主的なインフラの管理は重要になってくる。
冒頭にも「段階的」という言葉を使ったように、緩やかな移行が望ましい。将来のシステムの形が見えたら、トイレ観の問題であれ、自治の意識の問題であれ、現代のシステムの中に無理なく未来の要素を入れ込んでいくことが求められる。
トイレ観の話であればレジャー施設や自治体の施設への段階的な導入、自治意識の話であれば、トイレのコンポストの前に、家庭ごみの地域共同のコンポストなどが具体例になるかもしれない。
Appendix
国土交通省HPで91年度から22年度までの下水汚泥リサイクル率の推移が見られる。埋立処分が減ってきた傾向は全国的にも間違いないようである。一方で建設資材での利用の比率が高い。
国交省の資料から。平成27年度までのデータなのでやや古いが、処理場の規模別の処理状況のデータがあるので興味深い。
https://www.mlit.go.jp/common/001218776.pdf
まだ読みこなせていないが、コンポストトイレのFeasibility Studyだそうである。
都市衛生の代替としてのコンポストトイレについて
https://www.sciencedirect.com/science/article/abs/pii/S0956053X13004923