純粋理性を始めること
論理学とは非常に重要な学問である。わたしたちはどれだけ知識があっても、それを論理的に構成し、ある主張をするべきだからだ。だから、形而上学みたいな学問は、論理的なところによるし、わたしたちの哲学的思索も、主張から帰結まで、一貫しないといけない。そういう仕方で、ある説得性が生れるし、そうでないなら、論理的帰結が導けない。それはすなわち、純粋理性が思う存分に働かない、ということである。わたしたちは、思った以上に、純粋理性を駆使していない。ただの知識の怪物となるなかれ、己の思考を始めるのだ。
純粋理性の働きは、確かに彼の現実を捉える力を変貌させる。わたしたちはおそらく、分からないものを分からないままにしておくだけの力はないだろう。それと同様に、やはり、自分で思考する癖をつけるのが非常に大事なのである。