わたしたちは、レアリテに対いして、解釈しか持たないように感じる。確かに、ある思想は世界を変貌させる。それは告発のようなものであり、スキャンダラスである。 おそらく、ハンナアーレント、ヴォルテールのような哲学者は排他されるのだ。わたしたちは、世界に対して無力、というわけでもない。けれど、哲学者はおよそ事実を喋る。 レアリテに対する解釈が違うと、それまでも世界に対する偏見が変わる。わたしは確かに偏見を持っている。ところが知識があると、その偏見のヴェールが変わるのである。レアリ
わたしは散文 ただの散文 わたしは家 家そのもの 車が通り わたしの生活が始まる みだれたわたしの神経がわたしを示すように ただあなたはわたしのいる夢を見てほしい
わたしたちは一個の精神である。そういう仕方で、精神は事物を認識する。また、意識とはそれ自体で担保されるものである。 精神は、確かに存在しながら、わたしたちの唯物論的あり方を剥す仕方で、物質だけではないということを示唆しながら、それ自体で完結しているものである。また、精神とは、変容するものである。精神的あり方、とは、物質主義から離され、そして確立されるために、人間の営みが必要である。それによって、わたしたちは精神的、という言葉を獲得できる。 人間は有りようを説くことが出来
ふと 思いがけないところから 落下した わたしの魂が 淫らな風に流されていく よもやすると、わたしはわたし自身を知らずにわたしを演じていたのかもしれない なのはななのはななのはななのはな そこにわたしがいる 無意味な詩を置きたくなり 疲弊した魂はそっとわたしに口を開く ただ、永劫さえあればいい ただ、永劫さえあればいい もう、疲れた魂は川の中でぶくぶくと口を開き そっと熱意が注がれ もういいだろう、と愚痴をこぼす
わたしはおそらく、思った以上に狂気的な世界を知っているのだろう。人間の内奥にあるのは暴力的な、狂気であるような気がして、それは錯乱なのだ。わたしは、明らかに、自分の暴力性を感じているし、それを制御するにあたって、自分を壊滅させているのだ。セクシャルな出来事も、暴力にしか見えないし、わたしたちが信じている愛情、というのは、暴力の逆位置に存在するが、その愛情というのも、崩壊を免れられない、弱いものではないか。わたしはわたしの苦しみを取り除くことが出来ない。あらゆるカタルシスは死ん
わたしがふとした時間の間に 死が追いついて わたしを取り払おうとした 世界から 病巣は都会を歩き 思わずくしゃみをした老人は そのうち凍った炎に手をかざし ゆったりと死ぬのだ そこにこそ意義があった生活を忘れまいとし いつの間にか 悪の種が世界にまかれ それをうっとりと見ている神のように わたしは孤立し そして満たされた権力者となっている
人生が生きるに値するか否か。カミュが提示した、哲学のアポリアである。わたしは何とも言えない。なぜか気づいたら、世界にいた。これが事実である。人類は確かに、知識を深め、戦争も行い、つかの間の平和もあった。さて、人生は生きるに値するか。その前に、わたしたちは、人生にあまりにも意味を求めすぎていないか。人生、そのものに価値があると、思いすぎていないか。人類は、地球の年齢から考えれば、365日目に発生したことになる。そんな、新参者の人類が、まるで、地球を覇権しているように見える。人類
わたしたちの意識は直接与えられ、ここにある、という仕方で存在する。意識の現象学、はわたしたちの有り方、すなわち、認識のありようを教える。事物がまるで訴えるかのように、わたしたちの知覚に入る。事物は本当にあるのだろうか、それとも、わたしたちはイマージュだけを世界に見ているのだろうか。 わたしたちの肉は世界内に存在し、確かに生がある。けれど、それは実在でしかなく、存在そのものに意味があるわけではない。ただ、肉があるだけである。そして、わたしたちの意識というものは、形而上学的なも
わたしたちの形而上学は、もはや化石となり、物質主義、がはびこっているのではないか。現代は、わたしのまなざしで見ると、もはや成熟している。それゆえに、顕著となるのは、人間の欲望である。欲望が、戦争を起こすし、わたしたちの破滅への道が用意されているようなものである。 ところで、わたしたちの欲望は、生理的な現象なのだろうか。いや、わたしたちは、欲望を、静かな目で見ることも出来るのだ。それが過ぎ去り、何もなかったかのように、何もないのである。というと、わたしたちに残されているのは
あるひ、わたしが死んだ猿になり 剥製され、それがさらされる 歌がおわる 世界の端から、わたしがこぼれ 思惟そのものさえ、水の中に記憶される あらゆるものを知りたいと願いながら どうして、ここに無意味な死を置くのだろう 神は消えた、死んではいないらしい おそらく、わたしたちの倫理観というものは 大衆という怪物が示してくれる。 おそろしく、人がわたしを揶揄するとき わたしはただ呆然とするしかないのだ
自由が世界に向かって放たれるように、わたしたちの行動は自由でありながら、何が正しい生き方か、と問う。その問いは、倫理的であるし、それでも、正しい行為というのは、バイアスのかかった、常識である。まさしく、わたしたちはそういったものに帰依しながら、己の行動を省察する。内部で起こった、反省というものは、わたしたちは理性的である、という証拠である。わたしたちが非理性的になるのは、余裕がないからである。それでいて、わたしたちの不合理な行動は、それ自体が人間的である証拠ではないか。
難しい学術書を読むとき、とにかく、何度も読みながら、その内容が、具体的になるまで読んでみる。おそらく哲学書みたいな、概念を構成する力が身についていないと、結局何を言いたいのかが分からない。 かいつまんで、要点を抑える。哲学の研究は、また、自力で論理的に進むものである。それは純粋理性をふんだんに使わないとできっこないし、自分で思考する癖を身につけなければ、自分の思考は生まれない。 勉強法というのは、人それぞれであって、わたしは十分間でも、勉強する。そして休む。また十分。分か
もっとも人間らしく、あり もっとも、神にちかく、あり なのはな をつみに ゆっくりと 歩んだ おそらく、青春とはつかのまで わたしたちの手元に来ないものである それは過ぎ去るから
わたしたちの時代が、どれだけ美しいかを語るのに、あまり饒舌になるのは、品がないものだ。わたしは、現代を生きて、病を患いながら、夜に浮かぶ月に願いを願ったのだ。 それはおそらく、ロマンティスムであり、退廃的なものを拒み、正しく生きようとした、それによる副作用なのだ。正しく生きる? 無理を言っちゃいけない。正しさなんか、そもそも世界に存在しないのだから。 わたしは、何を求めて生きていたのか、ふと分からなくなり、「あぁ、夕焼けが綺麗だ」と、その言葉にあらゆる諦念が込められて、つ
戯れ、そして わたしの穢れが そっと おちて むしろ 焦がれた媚態が おちて また 容赦ない雨がふり 知性に溺れた日々 休息の日 わたしには何もかもあり 何もない 死んだ猿が 剥製となり わたしの手元に落ちる時 わたしはもう死んだも同然かもしれない むしろ 暴力が残った世界で セックスがもはや必要としない中で そこがきっと地獄なんでしょう 爆撃を受けた土地を歩き そこには 何もない平地があり もう いいかな、とこぼしている わたしは何者にもなれなかった
ただ生きているのに疲れて、わたしたちは一個の精神だということも忘れて、唯物論者になり、見えるものだけを信じるのは、少々危険な気がする。 見えないはずの精神がそっと見えるのが、日本の精神だと、マルクスガブリエルも話している。わたしたちは思った以上に、精神的だし、むしろ、奥ゆかしい気概がなければ、その人は精神を持っていない。人は言葉で形成される。使っている言葉が、彼を形成する。言語がなければ、わたしたちは思考をすることが出来ないだろう。漠然とした考えで、真っ白な世界を生きている