見出し画像

PLAYBOY2(前)

今回はPLAYBOY日本版の誕生について、前編という形で書いてみます。
創刊の経緯を読むと、これほどの面白い紙媒体が終焉を迎えたのは、つくづく残念なことだなと改めて思います。
マーケティング戦略の観点から見てもPBの成功は興味深いです。

【PLAYBOYは何の代名詞だったか?
外国人ヌードの代名詞
それはニュースになった。『PLAYBOY日本版』創刊号は、爆発的に売れた。
発売日の1975年5月21日、用意された43万8千部は日本全国の書店で3時間で売り切れとなった。入手できなかった人たちのために、雑誌としては異例の2万2千部が増刷された。
「売れた要因は、まず外国人の大胆なヌードだった」
創刊当時、副編集長として雑誌のコンセプトを作った池孝晃(68)はそう分析する。それまでも日本人タレントのセクシー写真やヌードを載せる雑誌はあった。しかし、外国人のヌードをここまで大胆に、しかも美しく載せる雑誌は日本にはなかった。
あえて日本人のヌードは出さず、外国人のヌードだけにしよう、というのがヌードを担当する池の戦略であった。
「戦後の貧相な食生活に耐えて育った日本人と、ずっと繁栄を享受していたアメリカ人の裸体には、やはり差がありました。単純に胸の大きさが違った。創刊後しばらくは日本人の裸を載せるのはやめよう、アメリカ人のヌードだけで行こうと決めていました」
池は日本人に感じさせるヌードを撮ってもらうために、わざわざアメリカまで飛び、向こうのプレイメイトの撮影現場に立ち会った。
「『もうちょっと下着を下げてほしい』などと注文をつけていました。アメリカ人に任せていたら、日本人のエロスを喚起する写真を撮ってくれないから」
池はよりセクシーな、より美しい外国人ヌードを追求し続けた。】

PLAYBOY日本版・終刊前号p22より一部抜粋

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?