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もう一度食べたいおばあちゃんとのシチュー

私には24歳まで、おばあちゃんと一緒に住んでいた。
おばあちゃんは、私が小さい頃、よく遊んでくれた。

「おばちゃん、いっしょに遊ぼう!」

幼稚園から帰ると、私は必ずおばあちゃんの部屋におもちゃを持って行っていた。

掘りごたつに一緒に入って折り紙をしたり、
ハンガーラックに縄跳びを結んで跳んだり、
「あんぽんたん!」とクルミを回しながら、持っているトランプの数字をそろえる遊びをしたり、
おじいちゃんが眠っているお仏壇の鈴を、何度も何度も鳴らしたり...

おばあちゃんは一度も私に怒ることなく、いつもニコニコ遊びに付き合ってくれていた。

小学生になっても、友だちと遊ばない日は、
「おばあちゃん、遊ぼう!」
と部屋に入っていた。
横になっていても、すっと起きて一緒に遊んでくれていた。
トランプをしたり、UNOをしたり、人生ゲームをしたりした。

でも、次第におばあちゃんは横になることが増え、私はそっと部屋をのぞくようになった。おばあちゃんが寝ているときは、一緒に遊ぶのを遠慮するようになった。

友だちと過ごすことも増え、いつの日からか、おばあちゃんと遊ぶことはなくなった。

おばあちゃんは糖尿病になり、
病院に通うことが多くなった。

病院から帰ってくると、
おばあちゃんは必ず言ってくれた。

「うちの家族はみんなぁ優しい」

病院で出会う他のおばあさんたちは、いつも家族の悪口言っていたらしい。
おばあちゃんはそれを聞きながら、私たち家族のことを褒め、自慢の家族だと思ってくれていた。

私が20歳になったとき、
振袖姿を見たおばあちゃんは泣いていた。
おばあちゃんの娘は、19歳の成人式の1カ月前、振袖も用意していたのにもかかわらず、事故で亡くなってしまったからだ。

おばあちゃんは、いつまでも私たちに優しかった。
でも、私は大人になると子どもの時のようにかかわれなくなっていた。
姉や兄、父や母には、嫌なことも嬉しいこともいっぱい話していたけど、おばあちゃんの前では、うんうんと話を聞くだけの私だった。


私が24歳の大学生だったとき、
おばあちゃんとの別れは突然やってきた。

その日、私は午後から授業で、お昼ご飯は前の日の母が作ったシチューを、おばあちゃんと分け合って食べた。
私はシチューを温め直して、おばちゃんの部屋に持って行った。
それがおばあちゃんにとって最後のご飯だった。

部屋に入るとおばあちゃんは横になってテレビを見ていた。
「置いとくね」
私はおばあちゃんの顔も見ず、シチューをテーブルに置いた。

もしかしたら、
そのときすでに体調が悪かったかもしれないのに。
もしかしたら、
もっと話をしていたら、しんどいことを話してくれていたかもしれないのに。
でも、"もしかしたら"なんて、帰ってこない。

その後、私は学校に行き授業を受けてから、街に出かけた。
母と合流して夕食を食べてから帰ると「おばあちゃんがしんどいみたい」と母から聞いた。
はじめは、何度も糖尿病で入院してきたため、"またかな"としか思わなかった。
でも、部屋に行くとおばあちゃんはゴミ箱に顔を突っ込んでいた。
いつもとは違うと思った。

かかりつけの病院は、休診日で受け入れてもらえず、大きな病院へ、父がおぶって車で連れて行った。
父におぶられたおばあちゃんは、つかまる力さえなく、サンタクロースの袋のようだった。
その姿を見たとき、危機感を感じた。

しばらくして、父から
「おばあちゃんがもう危ないから、早く来て!」と電話があった。
私と姉は急いでタクシーで病院に向かった。
"間に合ってほしい"
心の中で叫びながら、赤信号で止まる時間が、いつもより長く感じた。

病院に着くと、待合室にたくさん人がいる中、父が私たちを見つけて「早く!早く!」と叫んでいた。
私たちが急いで行くと、おばあちゃんはまだ治療中だった。
でも、その後すぐ中に呼ばれ、まだ心臓は動いていたものの、ベットで眠っていた。
最後、おばあちゃんはカテーテルの痛みに耐えられなかった。
兄はたまたま県外に行ったばかり。お土産話を楽しみにしていたと思し、兄が一番おばあちゃんのこと大好きだったから、"どうして今日なの"と思いながらおばあちゃんの顔を見た。

父は、かーちゃん!
母は、おかあさん!
私と姉は、おばあちゃん!
と叫んだ。
何度も何度も何度も何度も泣きながら叫んだ。
しかし、次第に心拍数が減り
おばあちゃんは息を引き取った。

あとから病院の先生が教えてくれた。
亡くなる直前、おばあちゃんは「おじいちゃんのところに行きたい」と言っていたようだった。
死を覚悟した言葉だろう...

おばあちゃんが生きている間、
40年前に亡くなった娘と20年前亡くなったおじいちゃんの話は、おばあちゃんから一度も聞いたことはなかった。
でも、ずーっと忘れていなかったんだなと思った。

私はおばあちゃんが亡くなって後悔した。
もっとおばあちゃんに優しくしていたら良かった。
あんなに優しいと言ってくれていたけど、私は優しくなんかなかった。

その日、私は眠っているかのようなおばあちゃんと1人ずっと傍にいた。

おばあちゃんが亡くなって、私は20年間続けていた大好きなバレエに行けなくなった。
年を明けるときも「あけましておめでとうございます」って言えなかった。
そして、シチューを見るたびに、おばあちゃんのことを思い出した。


おばあちゃんが亡くなって半月後、私は今の夫と出会い結婚した。
すると、おばあちゃんが夢に出て来た。
学校の教室のような薄暗い場所で、おばあちゃんがにっこり笑って、私の方を見る。
ただそれだけだったが、うれしかった。

息子を出産した翌日にも、おばあちゃんが夢に出てきた。
同じ教室のような薄暗い場所で、またにっこり笑って「もう、用はないわね」といいながら、窓の方へと消えていった。
私はパッと目が覚め、起きると涙が出ていた。
"行かないで..."という気持ちが残っていた。
でも、おばあちゃんは、亡くなってからもずっと見守ってくれていたんだなと思った。

その後、おばあちゃんは夢に出てこなくなった。


おばあちゃん、ごめんね。
私全然優しくなんかなかったよ。
小さい頃、あんなに遊んでくれたのに。
りかちゃん人形のお洋服やお布団、私用のバックもかわいくいっぱい作ってくれてたよね。
私も今いろいろ作ってるよ。楽しいよ。
おばあちゃんに見せたいな。
孫も2人できたんだよ。
かわいいでしょ。
おばあちゃんが作ったバック、使ってるよ。
優しいおばあちゃんだったんだよって、時々子どもたちにも話してるんだよ。
ねぇ、おばあちゃん、夢でいいからまた出てきてよ。
今度はさ、おばあちゃんと一緒におしゃべりしながら、あったかいシチュー食べたいよ。


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ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

noteを書きながら、おばあちゃんのことを思い出し涙が出ました。
でも、noteに書かさせていただいたことで、またおばあちゃんのことを思い出すことができました。
おばあちゃんが亡くなって、もうすぐ13回目の命日がきます。
何年経っても、亡くなった人のことを想うとまた会いたいなって思います。
でも、亡くなってしまってから後悔してもいけませんよね...

友だちでも家族でも、
大切な人のお顔を見ることの大切さ
もう1つ2つの会話を交わすことの大切さ
大事にしてくれた人のありがたさと、感謝の気持ちを伝える大切さ

あの日を境に感じます。




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