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子どものころの経験が育む"どうぞ"の心


「ねー、一口ちょうだい」


あなたは、一緒に食べている人にそう言われたら、どう応えますか?

「良いよ!」
「そっちのも食べていい?」
「もっと食べてもいいよ」

そう応える人が多いだろう。でも、私は高校生のころ、そう言いつつもモヤモヤしていた。

私が"これがいい"と思って頼んだものなのに...
あなたのものが欲しいとは思っていないのに...

それでも私は、友だちが喜ぶことをわかっていた。なんとなくあげることが正しいようなルールに従って「いいよ」といい、自分の頼んだものを差し出していた。

モヤモヤしながらもあげる行動。今、我が子は自然とできている。自分はなぜ、あのころ気持ちよく「どうぞ」ができなかったのか。恥ずかしい話だが、ほぼ大人になってもできなかった理由と、できる我が子を育てた過程での違いを考えてみた。

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「一口ちょうだい」と言われる不安


私は高校生のころ、友だちとよくカフェに行っていた。プリクラを撮っては、カフェでおしゃべり。学校の友だちとの楽しみだった。

ある日、クラスの友だちといつものようにプリクラを撮ってカフェに入った。初めて入ったカフェ。メニューを見て、友だちは抹茶のパフェを、私はいちごのパフェを頼んだ。

注文したものがくると、お互い自分のパフェを1口食べた。そのあと友だちが言った。

「ねー、一口ちょうだい」

いつもいうセリフ。私は自分が"これがいい"と思って頼んだものだが、友だちが欲しいと言っているから「いいよ」と自分のパフェを差し出した。

友だちからも「こっちも食べていいよ」と言い差し出してくれた。お互い1口ずつ食べる。

「美味しいね!」
友だちは言った。

「こっちも美味しいね!」
私も言った。

すると友だちは、

「じゃあ交換しよう!抹茶のよりこっちの方が美味しかった」


私は戸惑った。金額も食べたいものもじっくり考えて選んだものだったから。でも、抹茶のパフェを美味しいと言ってしまった。確かに抹茶のパフェも美味しい。きっと友だちより、私の方が美味しいと感じている。本当はいちごのパフェが良かったけど、自分が言ったこと。このあと友だちの機嫌を損なうことを考えたら、絵顔で話せる方が良かった。

そのときのモヤモヤはしばらく続いた。友だちに「一口ちょうだい」と言われるたびにドキドキしていた。でも、友だちはそれっきり「交換しよう」と言ってくることはなかった。

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自分から"どうぞ"という喜び


友だちから、「一口ちょうだい」と言われることは続いた。言われ続けていると、少しずつ抵抗がなくなってきた。

ランチにしても、もともと自分が頼んだものは自分だけで食べたい気持ちが強かった。自己中心的な考えだ。でも、あげたくないからではない。メニューを決めるときにどちらにしようかと揺らいだ気持ちから、"これ"と決めてしまうと、他の人のものが欲しいとは思わない。出てきたものをみて、私は"これを全部食べると心も体も満腹になる"という感覚からだった。

でも、友だちとランチやカフェに行き、シェアすることが多くなった。はじめは抵抗があったが、いろいろなものを食べたいと思う人もいることを知った。

大学生になると、大人数で分け合うこともあった。後輩が欲しそうな顔をしていたら、「食べる?」と自分から言えるようになった。喜ぶ姿がうれしく思えるようになった。「一口ちょうだい」と言われることより、"どうぞ"と言うことの方がうれしいことを知った。

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子どもからの"どうぞ"の経験


子どもはどうだろうか。おもちゃだって、いつでも"どうぞ"ができるわけではない。あなたも想像できるだろう。むしろ、なんでも譲ることができることの方が心配になる。でも、"どうぞ"ができたら、うれしくなって大人は褒める。

おもちゃだったら1つしかない場合、違うものを代わりに渡したり、待つことを経験したりする。相手の気持ちに気づける成長につながる。でも、お菓子であれば分け合えることができる。もちろんいつもできるわけではないが。

我が子は、2人兄妹。年の差は1歳10か月。でも、お兄ちゃんだからという言葉は、本人が自信になること以外は使わないように家族で共有している。お兄ちゃんだからと、必ずしも"どうぞ"をさせることはしていない。なんでも平等に、おやつも分けている。"自分のもの"という所有欲もまだまだ強い。でも、ふと優しく"どうぞ"ができることがある。

2人が園でみかん狩りをして、持ち帰ったみかんを自分たちで皮を剥いて食べているとき。
私が「いい匂いだね」と言った。すると、息子が「はい!」と言って一房渡してくれた。みかん大好きなのに。
「え!いいの?ありがとう」と受け取ると、またニコニコしながら一房くれた。兄の様子を見た隣の娘も、ニコニコしながら二房くれた。
「すごいなあ。"ちょうだい"って言ってないのにママが欲しいのわかったの?」というと、2人は得意げにうなずいていた。

大人なのに、バレていた気持ちに、ちょっと恥ずかしかった。でもうれしかった。本当は自分たちが採った、大切な大切なみかんだったのに。私が喜ぶことを喜んでくれて。
私は、「2人が採ってきてくれたみかん、美味しい〜」と何度も言った。

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幼少期の"どうぞ"の経験が乏しかった


信頼関係のある親子だからできる経験
。でもこの経験が、私が小さいころはできていなかった。

3人兄弟の末っ子。兄弟とは年も離れていて、祖父母も一緒に暮らしていた。

母は、私が好きなフルーツをよく買ってきてくれると「カハリーか好きだから」と言って私に渡し、ほぼ一人占め。母も、自分はちょっとは食べたからと「ママはもういらないよ」と言って、ほぼ全部子どもたちにくれていた。

兄弟で分けるときも、4個あれば、私が2個。母はお兄ちゃんだから、お姉ちゃんだからという教育はしていなかった。でも、私は普段からよく笑うがよく泣いていて、自然と兄も姉も優しくしてくれていた。

末っ子あるあるなことかもしれない。でも、それが"どうぞ"とあげる経験を乏しくしていた。幼稚園のとき、人のお世話好きで、いっぱい褒めてもらっていたが、友だちに譲ることができなかったときは母に怒られ、今でも覚えている。

私が保育士をしていたとき受けもっていた一人っ子の子のお母さんは、子育てで大切にしていることを教えてくれたことがある。

「一人っ子だから、おやつも家族で分け合って食べているんです。ママとパパが兄弟の代わりをしているんです」

確かに、兄弟がいないと、分け合う経験がより乏しくなる。素敵なかかわり方を知った。

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親子でも"どうぞ"の経験を積み重ねる


分け合う喜び、"どうぞ"と相手を思いやる気持ちは、人との信頼関係をよりよくするきっかけにもなる。お菓子ではなくても、おもちゃであっても、小さなうちから「どうぞ」「ありがとう」という経験は、親子であっても大切にしたい。

でも、間違ってはいけないのは、押しつけた"どうぞ"にはならないこと。子どもに対しては、褒めることより、うれしい気持ちや感謝の気持ちを伝えることが大切だ。褒めたれるためにするのではなく、"相手が喜ぶことをしたい"と思うようになるために。

あなたは、"どうぞ"と差し出すときは、誰にどんなときですか?

子どものころの経験が育む"どうぞ"の心は、信頼や共感が生まれ、温かなつながりを築く力となることでしょう。

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ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
"どうぞ"とするのなら、気持ちよくしたいですよね。年下って得なのかもしれません。でも、兄弟で経験できることの違いが出てきます。自分ができていなかった経験を、我が子を通して知ることができました。今は、親子だからできる小さな経験を積み重ねながら、心の成長につながることを祈っています。


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