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すばらしい人生を歩むために蝉になってみた。

蝉になりたいと思ったのは今年の夏。セミファイナルなるものに久しぶりに遭遇した時のことでした。

足先が当たったのか、もしくはぎりぎりで回避したのかはわかりませんでしたが、彼はどこにそんなエネルギーが残っていたのかわからない程に藻掻き、そして羽をバタつかせました。命の火は、どうやら消える直前にもっとも激しく燃え盛るようです。

そして彼は最後の力を振り絞り、もう一度空へ飛び立ちました。そうして、一瞬だけ空の青さを堪能したであろう彼はそのまま鳥に咥えられ、さらなる高度へと旅立っていったのです。

思えば、蝉というものは何年も土の中に籠もり、たったひとりで自らと向き合いそして、その中で醸造したものを自らの肉声に乗せて世界に発信するという、老成した創作者のような生態をしています。
自らの文で身を立てんとしている私にとっては見習うべき、生物としての模範であるでしょう。

なので人生経験として蝉になってみることにしました。場所は近くの公園。ここはコロナ禍に乗じて遊具が撤去されたのち、そのまま空き地になってしまった寂しい場所でした。

そこに私は穴を掘りました。縦4メートルほどで、私がすっぽり入る程度の深さです。私はその中でゴミ袋を被り、自らと対話することにした。
最初は暑い、苦しいと思うばかり。そもそも私はサウナに入ったことがないのです。高湿度、高温度、なにより極度の閉鎖空間に慣れていませんでした。思った以上にキツかったのが土の匂いです。

あれは表面的に嗅ぐだけではわからない、渋さ、酸っぱさ、青臭さがあります。虫の体液、土の成分、鉱物を通して滲み出した水滴などなど。
嗅げば嗅ぐほどに鮮明になっていき、そしてその情報量で頭がパンクしそうになるのです。はっきり言って頭痛がします。

出ようにも、わけがわからないくらい手足が絡まって袋の外にすら出ることができません。何度か藻掻いたのですが結局ダメでした。体力を温存するために無駄な抵抗はやめ、無心で耐えることにしました。

私は蝉になるために時計もスマホも持っていませんでした。文明の被造物と言えば外骨格代わりにしていたゴミ袋くらいです。可視化されない時間の流れというものを私は知りませんでした。ただただ暗黒の中で約束されていない何かを待つことは拷問のようにも感じました。

私は待ちました。変革を待ちました。自らの精神に、懸けた時間だけの痕跡と、証左となる変化を待ちました。しかしながら私の思考は未だにこの状況からの脱出、開放を求め、地上にあった文明を懐かしんでいました。
自らと向き合うどころか、私は外に外にとエネルギーを向けようとしてしまっのです。以前は自分の部屋という穴ぐらに引き籠もっても何も思わなかったのに────

私は再度この穴から、何よりビニール袋からの脱出を目指すことにしました。このままくすぶっていては幼虫のまま死んでしまうことになる。羽化失敗どころではないのです。
──とにかく、袋を破かなければ。袋さえ破れば脱出の糸口も見えるだろう
そうだ。落ち着いて考えてみれば腕が絡まっていても爪を立てて穴のひとつでも開ければよかったのだ。袋には口がある。穴を広げて口と繋げれば大きなビニール片と化すのだから。

そう思った私は私は指先を立てようと神経を集中させました。少し切りすぎた爪ですが、それでもビニールを破るには十分でしょう。
ですが、私のそんな見立ては思わぬ原因によって阻まれたのでした。
私の体を包んでいたものはもはやビニールではなくなっていたのです。

ずっと真っ暗であったため気づくことは出来ませんでしたが、ビニールはシリコンのような、分厚く、そして弾力あるなにかをまとっており、そしてその表皮は袋の口さえも塞いでしまいました。これでは出ることなどできるはずはありません。
私は絶望に似た諦観を味わいました。

もはや何日経ったのかもわかりません。寝て、起きて、そして時々この袋に穴の一つでも空いていないかと探り、そして見つけられずに寝るという暮らしを続けていました。

私はこの袋小路の安寧を良しとはできませんでした。何度も何度も、この均衡は破れぬものかと探っていたのです。

もしかすると、外はもうすでに何年も経っていて、私の知る誰も彼もいなくなってしまったかもしれない、逆に、私がこの穴に入ってから一日も経っていないかもしれない。
そんな恐怖をにじませながら、私が探っていた手は、ついにくぼみに掛かりました。それは袋に空いた、小さな小さな穴でした。冷たい空気が指先を冷やします。

すぐに指を突っ込むと、穴は容易に開いてゆき、手から腕、腕から肩、肩から頭、とあれだけ私を阻んでいたはずの表皮はものの一分もかからずに私を開放しました。

深く深く掘ったはずの穴は、私の思っていたよりもずっと浅く、少し跳んだだけですぐに登ることができました。


そのまま、私は家に帰るまで1回も振り返らずにいました。そして部屋の中に入った時、いの一番にシャワーを浴び、まっさらな寝間着を着て、そしてエアコンを点けてスマホを開いて、あれからたったの一日しか経っていなかったのを見るなり、安心して眠ってしまいました。



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