【短編小説】胸いっぱいの花束を
轟善助は街のふらっとステーション「どんどこ」に通って、はや十年。今年でちょうど四十歳になる。
その場所は生きづらさを抱えた人であれば誰でも利用できる所で、基本的にはいつ来て、いつ帰ってもいいのだが、善助に限って言うと、大雪が降ったり台風が来る時以外は休むことがない。雨が降ろうが槍が降ろうが朝の十時には『出勤』して、きちんと十六時までお勤めを果たす。そういう律儀で真面目なところが周囲の人達に評価されている。
善助はいつも、ふたりの女性スタッフさんとじゃれあって、彼女たちの仕事の手伝いをする。彼は女性と特に仲がいい。男性のスタッフが来ると、ぷいっと急ぎそばを離れてしまう。チラシの折り込みの作業をするのは、もう慣れたものだ。時おり、不器用できちんと折れなかったりもするけれど、相性が少し良いのかもしれない。女性スタッフさん達は笑って、見過ごしてくれる。
善助が由香里と知り合って、もう四年になる。彼はずっと由香里だけが好きだった。だが、由香里は生活指導員としてのキャリアも長く、気がつけば、三十半ばにそろそろ差し掛かろうとしている。善助は彼女が嫁入りしないのを密かに心配していた。
――先に遠慮なく結婚していいよ。僕達は結婚できないから
内心、そう思っていた。
ある日、善助が珍しく定刻からかなり遅れて、「どんどこ」にやってくると、賑やかにみんなが盛り上がっている。耳をそっと傾けると、「結婚」の話をしていた。場の中心には由香里がいる。彼女は快活に笑っている。
善助は話をよく聴く前から、みんなの輪の中からひっそりと抜けた。煙草を吸いに独りベランダに出た。
外に出ると、もう皆の声は聞こえない。彼はそこでため息をつく。
嫉妬…というより、まず侘しさを感じた。若いって素晴らしい。人から見ればたった七歳の違いかもしれないが、彼女には無限の未来がある。それにひきかえ、僕は…気がつくともう四十になる。四十だ。僕にはもう、時間がない…。
指を折って、彼は自分の年齢を数え始めた。
ここまでの人生。過ぎてみればあっという間だった。四十にして惑わず、という孔子様の言葉がある。あるいは彼は三国志の劉備の故事にあるように、すっかり贅肉のついた太腿をさすりながら嘆いた。この歳になるまで生産的なことは何もしてこなかった。人並みの恋、人並みの結婚、人並みの育児。何もしてこなかった。ただ、時間が過ぎゆくばかりだった。気が付くと僕は人生でいったい何をしてきたというのだろう。僕は、僕は、僕は…。
タバコの煙をのど深く吸い込む。ゆっくりと吐き出してゆく。煙が目にしみる…。
でも、同時にほっとした。これで明日からは二度と悩まずに済むと思った。この四年間は実に長かった。でも感謝している。人並みになれない僕に彼女は「最後の青春の日々」をプレゼントしてくれたのだから…。後はこころのなかで、「別れの儀式」が必要だと思った。おめでとう。僕だけの由香里さん。それも今日で卒業です。一度しか言わない。おめでとう。心の底からおめでとう。
――僕は貴方が好きでした
明くる日、善助はショックで寝込んでいた。生活指導員さんたちが心配するといけないので、気力をあらん限り振り絞って、夕方近く。街で一番、流行っている花屋に行った。 店に入るや否や従業員に「一番、大きなものを頼みます。花言葉が、『祝福』のものです。なるべく賑やかにしてください」と花屋さんがびっくりするような大きな声で告げた。
結果、うず高くなった薔薇の花束はその長さ片手を優に広げたほどかさばり、四十の男性がそれを意気揚々と胸いっぱいに歩いていると、自然、道行く人にくすくすと笑われることとなる。だが彼は一向に気にせずその足でそのまま、「どんどこ」へと向かった。玄関を開けると、とたん、メンバーの皆と目があい、皆は、豆鉄砲を喰らった鳩のように目を丸くしている。
「どうしたんだ。その花束は」と、リーダー格の関口がいった。「誰かにプロポーズするのか?」
その場では適齢期の女性は由香里しかいなかった。善助の眼はおずおずと怯えた様に彼女に向けられた。自然、皆の眼も、彼女にまっすぐと向けられた。奇妙な沈黙があたり一帯を支配する。二秒たち三秒たち、もうグループ全員が耐えられないといった感じになったところで、ひとの良い善助が、沈黙に耐えられず。腹を決めてこう、切り出した。
「け、け、結婚が決まって…お、お、おめ…」
善助は汗をたらふくかき、どもりながらこう喋りだす。
「おめ!」
その言葉に刺激を受けたのか。突然、別の長机で独り、棋書を片手に将棋盤に向かっていた和男が興奮のあまり、猥褻な言葉をつられて口出しそうになった。こうしたことは彼にはいつものことなので、生活指導員の杉下賢一が慣れた様子で静かに彼の手を曳いて、別の部屋へと連れ出していく。あたりは一転、触発されて賑やかとなる。
由香里は困ったという表情を一瞬したが、同時に善助が何を伝えたいのか察知した。恐れていた瞬間がついに来た。ここが勝負どころです、と彼女は思った。悟らせてはいけない。まだ、この人たちに気づかせてはいけない。
機転を利かし、表情を朗らかに保ったままで、くすっと笑いながら由香里は「的確」に対応する。場の雰囲気をすぐに明るいものにした。
「いやあね! 違うの。結婚するのは、私の家の犬よ。ジョン君っていうの。とりわけ彼を可愛がっていた母が亡くなって、私は犬アレルギーで。犬を飼えなくなって…。それでちょうど、引き取ってくれる人がいたの。その家にはすでにメス犬がいて、メアリーといって。ちょうど、いい機会だったから、お見合いをした結果、譲ることになったの。意気投合したわ! ジョン君なの! 家からでていくのは。犬なの。寂しくなるわ」そう言って笑った。
「なぁんだぁ。犬のことかぁ」
最初からずっと場の中心にいたはずの七海が、初めて知ったかというように、こう呟いた。「犬のことかぁ」
「由香里さん。辞めないで」
今度は急に不安に襲われた典子がべそをかきじめる。静かに感情を押さえながらそれでも泣き始めた。
「大丈夫よ。辞めないわ」
由香里はすっと典子の肩を抱きしめる。「大丈夫だから」
「そうだ。犬のことだぞ。由香里さんが。由香里さんが。結婚などするわけがないっ!」
と、これまた、おそらく由香里親衛隊を陰で自認している健太郎が今度は怒って、吠えまくる。
「やれやれ」と由香里は困ったという表情を微かに浮かべる。全く忙しいことです。健太郎は来年で五十を迎える。典子も確かそれくらいの歳だったはずだわ。
「じゃあ!」典子は体調を崩したようで、ひとり先に「どんどこ」から出ていった。
と、ところで肝心の善助は皆の話などうわの空で一切、聴いておらず。ぽかんと視線を上に向けながら、ただ物思いにしずんでいた。時と場所は万里を超える。野を越え、山を越え、古代、万葉集の世界のような純朴たる感傷のなかに彼はいる。以来、何も一切彼の耳には入らなかった。言葉も物音さえも消え失せた。甘い綿菓子のような夢想が彼の脳裏で次々と広がっていく。
「あっ、だらしない顔してる。良からぬこと考えてる」
「どんどこ」一、恋愛経験が豊富な余市は善助を観て、すかさずこう言った。彼はこういうことに関してだけはめっぽう鋭い。数の計算、お釣りの計算は全くといっていいほど、できない彼だが人の心理だけは読める男なのである。とりわけ恋愛が得意分野である。
そう余市に指摘された善助は慌てて、表情を取り繕い、我に帰った。しかし、彼は根が素直で善良なので、心の底から安堵した気持ちは皆に隠せない。
それを観て「はいっ 皆さん! もう、帰る時間ですよ」と、杉下が見るからにイラッとした様子で頃合い良く手をたたく。その指示を受けて、「どんどこ」のメンバー達みんなが素直に帰る準備にかかる。
「せっかくだから、これ、ここでしばらく飾りましょう」と、由香里が努めて冷静に善助から花束を受け取る。
「ありがとう」彼女は善助にぺこりと会釈した。
善助だけが指示に沿わずにその場に呆然と立ち尽くしていた。何が起こっているのか、いまだ理解できていないようでいるようだった。だが、しばらく経って彼はぽつりとこう言った。
「犬を飼う。僕も必ず犬を飼うよ! 丁寧に面倒を観る。『大切な人と別れる練習』をしなくっちゃ!」
突然、彼は沈黙を破って、こう言った。
「何をいってるんだ善助」
場の空気ーそもそもこの場に空気なるものがあるのか甚だ怪しいのだがーを代表して、リーダー格の伸介がいった。「何をいってるんだ善助。おまえは犬を飼うよりまず、自分の面倒が先だろ」
その言葉にみんなが一斉にわっと笑った。皆が彼をさかんに囃したてる。
「そうだ、そうだ。善助や~い。お前は自分の部屋をまず片付けろォ」
だが、善助にその声は届かない。彼は一度こうと決めたら、もう、今はそのことで頭がいっぱいのようである。
「先に帰るっ。急ぎ今から帰りにペットショップに行ってくるよ!」
そう言って、もうその場にいられない、っとでもいうかのように、ぷいっ、として。彼はぶっきらぼうに出ていった。あとのメンバーたちも、のろのろと支度をし、やがて全員、出ていった。
皆が帰り、杉下も彼らのお見送りに外へ出ていった後、由香里は丁寧に、薔薇を花瓶に生ける。
「それにしても、よくもこんなに多くの花束を…」と、思わず顔がほころんだ。「大丈夫かしら?」とも思った。
花を生けると、濃厚な薔薇の香りがあたり一辺に広がり。彼女は思わずむせ返った。急に春の風が薫った気がした。
(了)
(原稿用紙15枚)