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『聲の形』と世界からの祝福

映画『聲の形』は、時に原作の展開や要素をうまく捨象しながらも、ストーリーは基本的に原作にとても忠実と言ってよい範囲に収まっている。ただし映画を見終わった後に抱く印象は、原作の出来のよいダイジェストを確認したという感覚ではなく、原作はひとまず横に置いておいて、紛れもなくよい映画を見たという手応えである。

例えば、家出をした結弦が将也の家を抜け出して通りを歩いているところに、将也が追いついてくるシーン。カエルの死骸の写真をしゃがんで撮る結弦のショットを見ていると、ふと雨粒の音が変質したことに気づく。結弦に降り注いでいた雨の描写(身体の周りの白い粒)がなくなり、結弦が振り返ると将也のスウェットを来た足が映り、引きの画面になって将也が結弦の身体に傘を差している姿へとテンポよくショットが展開する(よって先程の音の変化は雨粒が傘を打つ音だったのだと分かる)。この些細な音を使った繊細な演出や、徐々に視野が開けていく的確なショットの遷移は、見る者の情動を思わず揺さぶってくる。

あるいは、その後に結弦と将也が前後に並んで歩くシーン。将也は、「なんなのお前、偽善者なの?」、「野良猫拾って気持ちよがってるの?」、「まともな人間にでもなったつもり?気持ち悪いんだよお前」と静かに詰問する結弦の言葉を矢継ぎ早に浴びることになる。その言葉を聞く将也の顔の表情や身振りの変化(顔をわずかに動かす、右手をあげる、下にうつむく等)は、観客にその推移の一つも見逃すまいと思わせる繊細さがある。

このような演出の機微を追っているとキリがなくなってしまうが、ここではこの映画の物語の構造について考えてみたい。というのも、この映画を見ていて何より目にとまるのは、同じ出来事が何度も繰り返されるという事態だからである。

一番顕著な例は、水に飛び降りるという行為であろう。小学生の頃の将也は、後に自分をいじめることになる友人2人と川に飛び込む遊びに興じる。小学生の頃のノートを川に落とした硝子は橋から飛び降りて拾いに行き、将也もそれに続いて飛び降りる。映画の冒頭、将也は橋から飛び降り自殺を試みるも、これは未遂に終わる。硝子もまた自宅のベランダから飛び降り自殺を試み、それを助けた将也が水に落下する。関連するバリエーションとして、小学生の将也が学校の水場に投げ入れたノートを硝子が取りに行く、いじめられた将也が水場に突き落とされる、といった場面もあげられよう。他の反復の例としては、小学生の将也は補聴器を奪おうとして硝子の耳を傷つけてしまうが、今度は硝子の母親が将也の母親の耳に傷をつけることになる等々、様々なパターンを挙げることができる。

こうした出来事の反復を振り返って気づくのは、これらの反復は「応報の論理」に従ったものが多いことである。劇中でも、将也が「自分の犯した罪はそっくりそのまま自分に跳ね返る」と言っている通り、硝子をいじめていた将也が今度は友人たちからいじめられるのであり、硝子の耳を傷つけた将也の代わりに将也の母が耳を傷つけられるのである。ここで生じているのは、いわゆる「目には目を、歯には歯を」という事態であり、ある罪の行為を為した者は、そっくりそのまま同じ行為によって罰されるという構造である。

人はいかにしてこの世界を支配する「応報の論理」から抜け出すことができるのか。この問いこそが、この映画の隠れた主題なのではないか。そこでキーとなるのが、人と人とのコミュニケーションである。ここで、最初に見た将也と結弦のシーンに立ち戻りたい(なぜなら、このシーンはこの映画の中でもっとも重要で美しい場面の一つだからだ)。「気持ち悪いんだよお前」と言われた将也は、顔を俯かせて持っていた傘を少し下げる。その次に将也の主観ショットに変わって気づくのは、傘を下げる動作によって将也は結弦(将也より背がずっと小さい)の顔を遮断したということである。続いて、将也が「俺最低な人間だから。本当は生きてちゃまずいやつだから。せめて、もう、西宮を泣かせたくないと思っただけで」と心の内を打ち明けると、結弦が将也の傘をぐいと持ち上げ、将也の顔を下から仰ぎ見る。このショットが感動的なのは、視線の遮断から交錯へと至るコミュニケーションが、まさにこの瞬間に生じたからである。ここでコミュニケーションは、「相手の目を見ること」によって立ち上がっている。

あるいは映画の終盤、病室を抜け出した将也が橋で泣いている硝子と再会した時、将也は小学生の頃にしたことを硝子に謝り、生きるのを手伝って欲しいと告げる。このとき二人は正座をして向き合っており(横から見るとなんともおかしい)、この時はじめてお互いの本当の気持ちが明かされ、心が通じ合うのである。その後、将也は学校で友人たちの目を見て謝ることで関係性を修復することになるのは、言うまでもない。

きちんと目を見て謝ること。そうすることで、人間は罪と罰の連鎖からなる「応報の論理」を断ち切ることができる。将也がそうしたとき、これまでは将也に見えていなかった世界、聞こえていなかった世界が立ち上がってくる。世界からの祝福に気づいたとき、将也の目に自然にあふれ出る涙と嗚咽は、観ている者の間違いだらけのこれまでとこれからの人生をも祝福してくれているように思われるのだ。

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