愛別離苦 愛するものを喪うことの苦しみ
人生は苦である
と喝破したお釈迦様の悟りを
お釈迦様を魂の兄弟として持つ大川隆法先生は 若い頃は「暗い」と思われたそうです。
しかし、年を経るにつれて それが 真実だと
つくづく思うようになったと
話されたことがありました。
釈尊は 大川先生の過去世の姿でもありますが、今世は今世で 新たな環境のなかで またゼロからのスタートです。
今世の心の修行によって
過去世で得た内在する叡知が
再び 甦って 生きて
今世の 生き方のなかにも
新たな経験を積んで
活かされて 来るのでしょう。
それを 悟りというのかもしれません。
過去世がどれ程立派な業績を遺した人であっても、今世に怠けていれば ただの人になってしまう。ただの人より マイナスになってしまうこともあり得ます。
小乗仏教では 悟りを開いた人は再びこの世に生まれ変わる事はないと教えていているとも聞きますが、そうではないと大川先生は話されました。
カルマの刈取りのような転生輪廻からは もう離れていても、人助けの為に生まれる菩薩や如来の境地の方が数多くこの世には生まれているのですのね。
ただ この世に生まれてくることは 高い境涯にいた魂にとってもある意味試練かもしれません。天使だったものであっても この地上に生まれることで生き方を誤って 地獄に堕ちてしまうことはあるからです。
キリスト教でも 天使が悪魔に成ってしまったサタンの話が 有名ですから…
地上は ある意味で とても厳しい修行の場であるのかもしれません。反面 とても魂が成長できる場にもなっているのでしょう。
肉体を持って生きるということは
生老病死の苦しみに加えて
愛するものを喪う苦しみ もあります。
これも 大きな苦しみ 悲しみです。
ただ
この世に生きている限り
誰も それを逃れる事はできません。
私が 母親の胎内にいたときに 母は1才になったばかりの可愛い盛りの兄を 腸炎で失っています。
父も うちの子が一番可愛いと 親バカぶりを披露していたと 聞いたのは
母が亡くなったあと、叔母からの話でした。
両親から、直接兄の話を聞いた記憶はないのです。兄の事を詳しく知ったのは、 両親の死後の叔父叔母からでした。
両親にとって 思い出すのも辛いことだったのだろうと思います。
なぜか 母の悲しみは 私の心の中にも
宿って 残っているいるような気がします。
この世の中の儚さ というか
両親とも早く別れるのではないかという畏れと予感を小学校低学年の頃から 微かに感じていました。
生老病死、愛別離苦 怨憎会苦という
苦しみや悲しみが
万人に等しく訪れるものだということが
年齢を重ねるにつれ
より深く実感するようになっていきます。
病を得たとき、愛するものを失ったとき
憎しむものと出会ったとき
自らの運命を呪いたくなるとき
苦しみが 耐え難く永遠に続くかと思われた時
何故、神仏がいるなら この世の中に
このような 不幸や苦しみが存在するのかと
思う場面に遭遇することもあるでしょう。
それはこの世が仮の世界で
あるからなのだと思います。
この世は永遠の世界ではなく
魂の修行場として用意されている世界なのだと 心の片隅に置いておくと 身の回りに起きる幸、不幸と見えしものの意味合いが少し変わってくるように思えます。
手に触れて 目に見えて言葉を交わした存在が 目の前から消えてしまうことは 霊的な感覚が無いものにとっては とても 辛いこと。
その喪失感も いずれ 私が向こうに旅立つ時には 再び懐かしい人たちと会うことになるのでしょう。この地上に生きている間は しっかりと生き抜いて 幸せになっていくことが大切なのでしょう。