悲しみや苦しみの意味 ヘレンケラーの霊言

 

私が 幸福の科学発足前に手にした書籍は このような本でした。
こちらに収録された ヘレン・ケラーの霊言
1986年2月10日の霊訓とありますから まだ大川総裁が商社に勤務され、世に立つ前に収録されたものです。
ですので 著者名は表紙には出ておらず霊人に質問されたお父様の名前で出ています。

こうした数々の霊言ば霊言の 真偽を疑うよりも その語られる内容に心が揺さぶられました。

少し抜粋してみます。

🍀環境と人間🍀

まず あなたがたに申し上げたいことは、「環境と人間」ということです。これについて申し上げたいと思います。世の中の人々はどうかすると自分は不幸な人間であると思いがちです。なぜ不幸でしょうか、その大半を人々は境遇なり環境に求めているのではないでしょうか。

自分自身を見つめる代わりに環境を見つめすぎるのが女声であるのです。男性の方も、似たようなことはあるかもしれません。

けれども、女性は特に環境に対する不平不満が多いのです。ですが、私は世の女性に言って置きたいと思います。天国において不平不満はないのです。

その不平不満のない世界から敢えて肉体を持ってこの苦しい地上に降りてくる理由は一体何でありましょうか、それは不遇な環境、苦労は、当然のことと承知の上で生まれて来ているということなのです。

私はある時に自分の運命を呪いました。なぜ私は眼が見えないのだろうか。なぜ私は耳が聴こえないのでしょうか、なぜ私は喋ることもできないのでしょうか、なぜ人も嫌がるこのような三重苦が、わが身体に、わが生命に襲いかかってきたのでしょうか。

私の思いは旧約聖書にあるヨブの嘆きのようなものでもあったのでしょう。人々は旧約聖書において、ヨブに次々に降りかかった苦難について知っております。



そしてヨブは神を恨みます。あの善良なヨブ、人のことを悪く言わず、神のことを決して恨まなかったヨブが、最後にはーなぜ私はこんな苦難を受けねばならないのだろうか。と、神を恨み不平に思う心を持ちました。

その時に神は言いました。「ヨブよ。一体お前に何が分かるのか。お前は宇宙のはじめの時を知っているか。お前は宇宙の終わりの時を知っているか、お前は宇宙がどのように動いてきたか知っているか、……中略……
何一つ知らないお前が神である私を裁こうとしている、それはお前自身の都合によって、お前にとって都合が悪いということでもって神である私を裁こうとしている。天の経倫、神の経倫も知らず、自らが置かれた境遇の不幸だけを呪う心が果たして神の子の心であろうか  ー。」神はこのようにつぎつぎとヨブに語っていきます。そして最後にヨブははたとして悟るものがあったのです。

人間というものは、ともすれば恵まれた環境に置かれると神に感謝し、神を念う心を持つことができるのです。ところが、自分がいざ不幸になってみると、こんどは代償を求めるのです。あれだけ神に対して祈ってやったのに、あれだけ神を信じてやったのに、あれだけ毎日信仰の心を持っていたのに、どうしてその信仰の引き換えに、神はこんな不幸な環境を私に与えるのか、私をこんなに苦しめるのか、すぐ堪忍袋の緒が切れてしまうのが人間です。

人々は旧約聖書においてそのヨブへの神の答えを読まれました。けれどもまだ人々はまだ本当の意味が分かっていない。そのために神は、このヘレン・ケラーという人間を、この地上に送り込んでもう一度ヨブと同じようなことをさせたのです。

私のように眼が見えない人は多いでしょう。で、彼女ら、彼らのうちのいったいどれだけの人が、世の人々を勇気ずけるように起き上がったでありましょうか、彼ら、或いは彼女らの大多数は世のお荷物になりこそすれ、世の人々を照すところまではいっていないはずですもそのような環境を呪うような心が彼らにはあるはずです。そこで私が現代のヨブとなって生まれて来たのですもどのようなハンディキャップを持っていたとしても、人間というものはないかなそのハンディキャップに負けず燦然と輝くことができるということを示せというのが神のわたしに対する指命であったのです。

私も環境に負けかけました。神を呪ったこともありました。けれども私は漸く自分の使命を悟り、やがて光の天使としての使命の一端を担うことができるようになりました。

🍀神の沈黙の意味🍀

ですから私はあなたにも言っておきたいのですも新たな宗教を興すという人は、ともすればご利益というものを考えるものです。神を信ずることによって萎えていた足が治るとか、見えていなかった眼が見えるとかの或いは死人が甦る     
 極端なことをいえば、こうしたご利益を人は希望もし、願いもするものです。
 
しかし、神は私に対しては何もお答えなさらなかったのです。

神は私の眼を開かそうとはしませんでした。神は私の耳を聴こえるようにはされませんでした。
神は私の口を自由にしようとはされませんでした。
神はヨブの祈りで言うならば、ヘレン・ケラーの祈りを何ひとつとして叶えられなかったのです。

しかし、答えられない、沈黙しておられるという中にまた神の回答があるのです。

よろしいでしょうか、あのイエスキリストと言われた偉大な人でさえ、その神の子であるイエスでさえ、十字架に架けられる自分というものを知っておりました。その神の子であるイエスでさえ、神の子であるイエスでさえ、ゲッセマネの園において血の汗を流して祈られたといわれております。……
『神よ願わくばこの苦杯を、我より取り去り給えー。』しかし、また『されど、我が意(こころ)のままに成さんとするにあらず、御意(みこころ)のままに成し給え、』

この血の汗の祈りに対してです神は何一つ答え給わなかったのです。


同じことはソクラテス対しても言えます。ソクラテスは世の人々を導くために努力全力を尽くしておりました。青年たちに無知の知を説いておりました。汝ら覚醒よ。本当の霊的知識に覚醒よ、ということを彼は声を大にして日々語っておりました。しかし、市民達は、愚かな市民達は彼を捕まえ、青年達を惑わすものだと言って刑務所に入れてしまいました。これはソクラテスにとって大きな苦杯であったでありえましょう。

彼は牢番達の逃れよという言葉に耳を背けました。なぜなら光の天使たちが彼に逃れよと勧めなかったからです。
この時光の天使達は何も答えなかったのです。死ねとも言わなかった。逃げろとも言わなかった。答え給わなかったのです。これがソクラテスに対する゛沈黙゛の答えでありました。ソクラテスは自分の運命を感じとりました。彼は毒杯を呷って翌日 刑死することになります。

このように、光の天使であればすべて救うかというとはないのです。答え給わないということがあるのです。それは、その運命がこの人間が地上に生まれてくる前に、神と約束していたものだからであります。そうした運命です。

逆境において最高に神の子としての使命を果たすということを約束して出て来ているからです。

ですから、私は世の人達に言いたいのです。
様々なハンディキャップはありますでしょう。様々な不幸はありますでしょう。様々な不遇はあるでしょう。

けれどもそのような不幸や苦難も、或る意味では生まれる前に、こういう人生であっても頑張って来るということを神に約束して生まれて来ているということです。…

例えば眼が見えない。例えば足が立たない。
例えば耳が聴こえないというのは これは本人の責任でもない、誰の責任でもないと人々はよくいいますが、そのような意味においては本人の責任なんです。

人間というものは、ある程度自分の人生のシナリオを自分の守護霊達と相談して生まれて来ているのです。
ですからこの今の世において、不利な立場にある人こそ、逆境にある人こそ、神との間に大いなる試練を約束して来た人だということであります。

人生というのはマラソンのようなものなのです。汗を流して苦しんで走っているんです、端からみれば、そんなに苦しまなくてもいいではないかと、この車に乗って行きなさいと言いたいのですが、それではいけないということなんですね、ですからあなた方も、人間の幸福というものを今後とも考えていかれるでしょうが、マラソンでいえば、安易に横からハシッテキテ。車にお乗りなさいと言っているようなことではいけないということです。

あなた方が学んでおられる日本神道の教えの中にも残念ながら誤りがあると私は思うのです。それは、

すべての人間がすぐ幸せになるということは大事ですけれどもそれは、この三次元の役割りというものを見過ごしている所があると思うからです。

私は世の人々に言いたいのは、環境をよくするために奔走するよりも、環境の中で、自らを輝かす。そのような努力をしていただきたいと思うのです。人生は困難があるから素晴らしいんです。困難があるから嬉しいんです。輝いているんです。それは困難礼賛ではありませんよ。自分の不注意で、不幸を起こして、それでよしとせよと言っているのではないのです。

私が今世の人々に対して訴えかけたいことは、信仰を持って生きるということが如何に美しく輝いてみえるかということです。如何に素晴らしいかということです。いま日本の方々をみてもどうしても唯物論的になり、科学万能になっておられるようです。

あなた方の教えを信ずることによって、周りの人々から嫌われ、親戚から破門され、陰に隠れてコソコソしなければならないような、そんな教えではないはずです。もっとあなた方の教えを信ずることによって人生に勇気を持ち、そして事業に成功して行けるような、そうした強い人間を作りだせるような教えであって欲しいと思います。

💖病や障害のある人に💖

あなた方は笑顔を人々に与えることはできるはずです。
世の中に 対して自ら何の貢献もできないと思っておられる方々に私はこの場を借りて言っておきます。
 何もすることができなくとも、あなた方は微笑することはできるはずであります。
 顔で微笑することができないならば、心で微笑することはできるはずであります。

 それは野に咲く美しい草花の心境と少しも変わりません。あなた方がご家族や、他の人の心を暗くしていることを反省なさるのであるならば、

常に微笑しなさい。常にほほえみなさい。それがあなたの最大の人生修行となるでありましょう。


草花のように、野に咲く百合の花ように、清く朗らかち、そして微笑しなさい。

平凡な人生を生きているあなた方一人ひとりがまた光の天使であるということです。あなた方の心を輝かすことによってあなた方も光の天使としての使命を果たすことができるのです。それはあなた方の環境には関わりません。一人ひとりが光の天使になろうと努力して下さい。

笑顔を絶やさないで下さい。神はそれを望んでおられます。私もまたそれを見守りたいと思います。
🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀

以上が引用となります。

このヘレン・ケラーの霊言も また 私にとっては衝撃的で  心を鼓舞してくれる一冊となりました。

自分が例え恵まれていないと思ったとしても
自分の人生は 予めシナリオを書いて生まれてくる。
その中でどう心を輝かせることができるか。

これらの言葉の数々には大きな教訓がありました。

この後 幸福の科学の団体もでき、太陽の法
黄金の法 永遠の法と続く 基本的法が説かれていくことになります。


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