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子どもへの眼差しを初心に戻す言葉

愛しきドタバタの日々


昨年、3人目の暮さんが生まれ、パートナーと3人兄弟との5人暮らしとなった。

アパートで安心して暮らす自信はない。

0歳から5歳の彼らは、いつ何時だって体いっぱいに喜びや楽しさを、そして悲しみや悔しさを表現する。

誰かが「イーヤーサーサー!」と放てば「ハーイーヤー!」と返ってくる。

2番目はキューバ土産のクラベという楽器を叩きまくり、自分の誕生日を前に「大きい太鼓がほしい!」と言う。

3番目が泣き始めると「3秒ルールー!3秒ルール!へいへいっ!」という謎の一発ギャグであやす1番目がいる。

先に生まれた2人は、風呂上がり、おむつ一丁でウクレレ片手に、時にフォークシンガーのように、時にパンクロッカーのように『はたらくくるま』を歌い、シャウトし、ダイブする。

最近はハーモニカも発見し、太鼓とハーモニカという独特な組み合わせで遊んでいる。

子どもたちの成長は、言葉の如く“瞬く間”だ。
油断も隙もあったもんじゃない。
見逃さないように、じっと見つめる。
驚きと喜びと優しさの眼差しを送る。

首が座る。寝返りを打つ。微笑む。言葉を放つ。ズリバイ、ハイハイ。立つ。一歩、歩く。

少しずつだが、とてつもない量の変化を目の当たりにする。
不安な日々の中で、親はその少しの変化に驚き喜ぶ。

当たり前と期待だけが増えていく

しかし、いつからか、「前にできたんだから」「もうこの歳なんだから」「1人でできて当たり前」と子どもの成長発達の過程に対する眼差しは厳しく、変化を見逃すまいとしていたあの眼差しは、ひどく鈍くなる。おそらくこう言う私も例外なく、どこかで鈍りがあるだろう。

それだけじゃない。
学校に行くようになれば、

テストで何点とるのか。
みんなの前で発表できるのか。
周りの子はもうできてるけど、うちの子は…。

できること、できないことを周りと比べ、当たり前と期待が増えた分だけ、子どもも大人も心と時間を消耗していく。

本当に子どもたちへのぞむものは何なのか…

詩人の言葉を借りる

「奈々子に」という吉野弘の有名な詩がある。
子が産まれてから何度も読んできた詩だ。

ーーーー

奈々子に

赤い林檎の頬をして
眠っている奈々子。

お前のお母さんの頬の赤さは
そっくり
奈々子の頬にいってしまって
ひところのお母さんの
つややかな頬は少し青ざめた
お父さんにも ちょっと
酸っぱい思いがふえた。

唐突だが
奈々子
お父さんは お前に
多くを期待しないだろう。
ひとが
ほかからの期待に応えようとして
どんなに
自分を駄目にしてしまうか
お父さんは はっきり
知ってしまったから。



お父さんが
お前にあげたいものは
健康と
自分を愛する心だ。


ひとが
ひとでなくなるのは
自分を愛することをやめるときだ。


自分を愛することをやめるとき
ひとは
他人を愛することをやめ
世界を見失ってしまう。


自分があるとき
他人があり
世界がある


お父さんにも
お母さんにも
酸っぱい苦労がふえた


苦労は
今は
お前にあげられない。


お前にあげたいものは。
香りのよい健康と
かちとるにむづかしく
はぐくむにむづかしい
自分を愛する心だ。

ーーーー


友人の宣言も借りる


東京で中高の教師をしている友人に子どもが生まれた。
友人は生徒から冗談まじりにこう聞かれた。

「先生、子どもはどこの塾に入れるの?」

その友人は後日、宣言するように、自分自身へ蹴りを入れるように、全校生徒が聞く校内放送で、こう返答した。

「そんなことどうだっていい。子どもが生きてくれさえすれば。」

特別支援学校の先生の言葉も借りる

子どもは親の所有物でもなければ、くじ引きでもない。

どんな子であっても、どんな状況になっても、その子やまわりの大人が安心して暮らせる世の中になるよう、やれることをやるだけである。

最後に、平熱先生(特別支援学校教員)のこの一文に激烈賛同して終わる。

自然だろうが無痛だろうが切開だろうが早産だろうが難産だろうがシングルだろうが養子だろうが母乳だろうがミルクだろうが男だろうが女だろうが一重瞼だろうが二重瞼だろうが障害だろうが病気だろうが産まれてきたすべての赤ちゃんと育てる大人に「おめでとう、大丈夫だよ」と祝える社会にしてこーな。

https://x.com/365_teacher/status/1869358916448264659?s=46


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