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「価値観を認める」とかいう人

最近になって「価値観を認める」という言葉が蔓延しています。
ネットではそんな流行りの言葉が、何の中身も説得力もないSEO記事に乗っかって流れてきます。
違う価値観を認めるということは、自分が苦手な、あるいは嫌いな人間の欠点さえ認めるということです。
他人を認めた方がいいなんてこと、みんな頭ではわかっています。ですがそんなに簡単に他人を認められるわけありませんよね。

長所は他人からよく映るので自ずと認められています。だから、「価値観を認める」という言葉の背後には「嫌いな人の短所をひとまず保留して飲み込む」という考えが見え隠れしています。

ちょっと不思議ですが、他人の価値観・欠点を認めると自分の欠点を認めることにもなります。多分、相手の欠点を見るたびに、それと似た自分の欠点にもフォーカスすることになるからだと思います。

他人の欠点はよく見えますが、自分の欠点はあまり見えません。だから他人の短所を見ると幻滅してしまうもの。だけど、自分自身も周囲の人から同じように欠点が見えているかもしれません。

他人は自分の鏡である。
他人のふり見て我がふり直せ。
という文言はそうやって生まれた言葉なんでしょう。

確かに人をよく観察していると、その人が気にしている他人の欠点は、その人自身の欠点であることがよくあります。
例えば「あいつ騒がしくない?」と友人に言っていたとしたら、その人自身もたいてい騒がしいのです。

つまるところ、自分が疎んでいる人間と自分は実は似たもの同士かもしれません。だから、他人を認めると自分を認めることになります。

しかし、相手であれ自分であれ欠点を認めるためにはたくさんのエネルギーを使います。短所を認める、自分で自分を指摘する行為はプライドに傷がつきます。他人に「価値観を認めて」なんて言われたって認められるはずありません。

他人を認められるようになるためには、色んな人と人間関係を築いてみるしかないのだと思います。そうやって、人間のどうしようのない部分をまざまざと見せられて「ああ、自分も含めた人間全体がどうしようもなく愚かで未熟な生き物なんだな」と思えて、やっと万人の価値観を認められるようになると思います。

そんな人間は滅多にいません。価値観を認めるなんてことを声高にいう人はは、他人を自分の型にはめるための都合の良い詭弁を言っているに過ぎないと思います。

他人を認めるとか言っている人は、本当に他人を認めることなんかできていないのです。




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