近所の俺と犬が笑った。
喜劇者が悲劇者を笑っている。この情景におけるポイントは、別に喜劇者は幸せではないということだ。喜劇者とはつまり彼のキャラクターであり、その場において彼に与えられた役割なのである。
ある青年は毎年同じ作物を育てる農耕民族になるより、世界中を歩き回る遊牧民でありたいと思った。しかしながら当時の一般市民は、自分の願望にかかわらず、家柄や生まれ育った地理的な条件によって生き方が決められていたのである。
ある老紳士はホットコーヒーを飲みながら文庫本を読んでいる。喫茶店では流行歌のインストゥルメンタルバージョンが流れている。店内のイメージに合わず、鬱陶しい。曲が変わった。流れてきたのは、老紳士の青春時代に流行った曲だ。脳内再生しているあの曲、この曲。継ぎ接ぎだが思い出は深い。あの時代から今まで、間はなかったようにさえ思える。希望を言えば、ここで涙をこぼしたい。一滴の、小さな小さな涙をこの目からこぼしたい。だけども涙になるほど余分な水分も塩分も持ち合わせてない。一点を凝視しているつもりでも開くドアのベルで気が散る。俺がバカになったのか世界が狂ったか。そんなことはどうでもいい。
時が立って風化したビルの裏側は形容し難い腐敗ぶり。建ったばっかりの頃を知ってる中年と建った頃生まれてもいなかった少年。同じくらいのペースで、同じくらいの歩幅で、歩いて通り過ぎてった。
電話しながらよく笑う女学生は駅前の交差点の前。今日は寒い。結構寒くなってきた。