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【コラム】『ゲット・アウト』と『アバター』—縛られる「黒人」/立ち上がる「白人」

「成り代わり」映画

 ジョーダン・ピール監督の『ゲット・アウト』(Get Out, 2017)を観てグレアム・ターナーの主張を思い出した。
 ターナーは、ほとんどのハリウッド映画の「成り代わり」映画(黒人⇔白人/男性⇔女性/金持ち⇔貧乏)にあっては、「一見革新的だが、物語が展開するにつれ、映画のポイントは、しばしばたんに主人公が以前の状態を受け入れるのを正当化するにすぎないことが明らかになる」と指摘する。かつ、その目的は結局のところ、「人の望むものはかならずしもその人が本当に欲するものではないということを発見すること」に存すると。
 『ゲット・アウト』におけるあの結末が、単に「白人」社会には関わらないでおこう、今まで通りでいいや、という「黒人」の諦念のレベルに留まっていないことを願うばかりである。

裏返しの『アバター』

 さて、当然のことながら、ターナーが指摘したような「成り代わり」映画の結末は、ジェームズ・キャメロン監督の『アバター』(Avatar, 2009)がその典型的な例としてあるように、白人男性が主人公である場合は話が違ってくる。
 かの作品では、米海兵隊の傷痍軍人ジェイク(サム・ワーシントン)が「アヴァター(化身)」という名の――その実、ナヴィ族と呼ばれる巨人の――「五体満足」な身体を手にしていた。足が不自由である彼が車椅子を捨て、4メートルにも達する巨躯を得て直立し、走り始める瞬間――そのとき3Dスクリーンにおける比重が水平軸から垂直軸に移行する――は確かに観客にも映画的興奮をもたらした。
 だが、西部開拓時代を未来の外宇宙で再演するこの映画にあって、人間のために代理ボディの遺伝子を提供させられたに違いない「青い」巨人=ナヴィ族が、明らかに「ネイティヴ・アメリカン」と「黒人」のメタファーとしてあることを忘れるわけにはいかない。つまり、ジェイクら「白人」が今、いい気になって「乗り回している」ボディの奥底には、何者か――「非白人」と言ってもいいだろう――の「意志」が眠らされているに違いないのである。

 椅子に縛りつけられ身体を奪われる「黒人」と身体を奪い車椅子から立ち上がる「白人」。裏返された『ゲット・アウト』として『アバター』を観るとき、私は、空恐ろしさを感じずにはいられない。

〈引用文献〉グレアム・ターナー『フィルム・スタディーズ―社会的実践としての映画』松田憲次郎、水声社、2002年。


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