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【試訳】フローラン・ゲズニャールによる『ブレードランナー2049』評(Florent Guézegnar, Cahiers du cinéma, nov. 2017)

 『ブレードランナー2049』の共同製作者リドリー・スコットは、今年、自分の最良の映画の品位を落すことに真に取り組んだ。苦心の跡の見える『エイリアン・コヴェナント』の後、破綻は、この『ブレードランナー』の続編にとって、壮大なものになった。それは少なくとも前作の価値は引き上げた。ヘルツォークの偉大な映画群(超人と奴隷の間で宙吊りにされる人間性)に接近し、手付かずの魅力的な未来を先取りした、かの寓話の。逆に、ドゥニ・ヴィルヌーヴの映画は長くて、青ざめ、もったいぶっていて、醜い(べっとり灰色で/べっとりオレンジ色で)。しばしば滑稽なまでに粗暴な、退屈なSF作品だ。ライアン・ゴズリングは自らに 相応しいロボットのような役を、ジャレッド・レトは話の長い意地悪な創造者を演じ、哀れなH・フォードは老いて頑固爺になっている。彼はしかし「本当の」『ブレードランナー』では素晴らしかった! この映画はその反対であると分かる。つまり人間が中心に置かれた1982年のそれは、人間の魂を探索し時間から逃れる為に、肉体から引離された世界のマチエールを探していた。今作は、ロボットが中心に置かれ、家族の卑俗な再会の為に肉体からの一般的な引離しで満足していた。扱いは悪いが唯一興味深いのは、日常での事実同然性の影響力だ。だが、非現実の恋人の予想外に感傷的な様相は非常にずれており、彼女は早急なやり方で犠牲にされる。また、ガラス張りの牢獄にいる記憶製造者の着想は美しいが、彼女の作る記憶はクリシェの山だ。これは製造者自身による複製人間(レプリカント)のというよりはコピー人間(デュプリカント)の映画だ。R・ゴズリングとマイケル・ファスベンダー(『エイリアン・コヴェナント』)ー2人の男、ハリウッド役者、白人ーが、これら2つの続編においてロボットを演じるのは皮肉だ。また、ジョーダン・ピールの『ゲット・アウト』が抗弁するのもこの点だ。つまり、デジタルな精神錯乱も「ロボットのような役者」も。支配的テクノクラートは未だにほとんど「白人」ーそれどころか蒼白人!ーで、『ゲット・アウト』は非常に巧くそれを利用している…

以上。散々な言われようだな、こりゃ。

【おまけ】『ル・フィガロ』O・デルクロワ「『ブレードランナー2049』―発明と憂鬱の極み」R・スコットの最初の作品から35年、ケベック出身の監督D・ヴィルヌーヴが小説家P・K・ディックから翻案された神話を再びわが物とし、ボードレール的憂鬱と特殊効果の美を結び付ける偉大な未来派映画を届ける。 https://twitter.com/Le_Figaro/status/915040255035805702…

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