【映画評】ルイ・シホヨス監督『ザ・コーヴ』(The Cove, 2009)
海外版DVDと日本上映版の違い
以下は、このアメリカ製ドキュメンタリー映画が日本で公開された当時(2010年)に、事前に入手していた海外版DVDを自宅で見て、その日のうちに渋谷の映画館で日本版を鑑賞した上での記述である。
まず日本版では、①「この映画が示すデータは製作者の見解に基くものである」旨の前口上の字幕画面が入り、②太地町(和歌山県東牟婁郡)の住民の顔にモザイクがかけられ、③エンディングの字幕に太地町と日本に配慮した改変が加えられている。これら改変に関する個人的見解を述べると、まず③が扱う訂正情報は①と合わせて上映開始前に提示するだけで充分だったろう。③による字幕改変はオリジナル版の編集意図を損ね、却って映画の構造それ自体から本作を批判する道を閉ざす。②は太地町民を没個性で不気味な集団として描く製作側の無意識を補強する。
オーシャンズ11—トワイライト・ゾーンでのスパイ活動
さて、本作の冒頭、リチャード・オバリー——彼は『フリッパー』(1963)でイルカのトレーナーを務めたことを、今では動物虐待であったと後悔している——は、太地町を「トワイライト・ゾーン」と称す。パンフレットによれば、ルイ・シホヨス監督もかの地を「S・キングの小説から飛び出してきたかのような町だった」と評する。
即ち本作は、クジラ・イルカ愛護を標榜しているかに見える町がその実、裏側ではそれらを虐殺しているという「秘密」を暴かんとするものなのだ。そのために召集される「オーシャンズ11」たちは、ILMの技術や「軍事レベルのサーモカメラ」を用い、変装をして太地の「入り江」に潜入する。画面は勢い外国を舞台とするスパイ映画の様相を呈し、実際「秘密」は暴かれる。オバリーは東京の真中でオーシャンさながら自分達の勝利を高らかに宣言する。
畢竟、オバリーらは「トワイライト・ゾーン」で「迷う」ことを早々に放棄し、古典的「スパイ映画」をオーシャン並にお気楽に生きることを選択する。かかる勧善懲悪の世界では、敵の首魁の名前ばかりが取りざたされ、その他の人間(「太地町民」や「日本人」)には個性、いや名前すら付与されないのだ。それは、「オーシャンズ11」らの名前と経歴が映画に横溢するのと好対照をなしている——本作で取り上げられる西洋イルカにすらキャシーという名前、さらにはフリッパーという芸名があるというのに。太地町という「トワイライト・ゾーン」にあっても、結局、彼らのアイデンティティーは微塵も揺るぐことがない。
アメリカ人動物愛護家の「秘密」
ジョナサン・バートは、1950~60年代のアメリカ製動物映画・TVでは、主人公は常に孤児か離婚した親を持つ少年であったと指摘する。フリッパーやラッシーは、そこで彼らの親の代わりを務め、肉親以上の存在となったのだ。本作の監督やオバリーのイルカに対する情熱の背後には、どんな「秘密」が隠されているのだろうか。彼らアメリカ人の「寂しさ」を癒すためだけに、本作の動物が扱われていないことを願おう。
〈引用文献〉Jonathan Burt, Animals in Film, Reaktion Books, 2002.
追記
2010年7月30日、渋谷、シアター・イメージフォーラムにて、『ザ・コーヴ』上映前に内澤旬子さんと関口雄祐さんによるトークショーが「世界の屠畜とイルカ漁—実際の体験をもとに語る」をテーマに開かれた。内澤さんの質問を受けて関口さんが「イルカと一口でいってしまうけれど、実際にはイルカにもたくさん種類がある」という話をされていたのを特に面白く聞く。「イルカ」というときそこで何が捨象されるのか。
実際、映画の中でも何が「イルカ」と呼ばれているかよく分からないところがある。例えばオバリーは「イルカは小さいクジラである。サイズは問題じゃない」という一方で「太地町ではイルカの肉をクジラの肉と称して売っている」ともいうのだ。前者では区別するなといい、後者では区別しろというダブルスタンダードだ。
参考:「イルカを食べちゃダメですか?」関口氏と「世界屠畜紀行」美人作家が『ザ・コーヴ』の製作背景を問題視|シネマトゥデイ (cinematoday.jp)