【2024年公開映画ベスト10】
2024年度に映画館で見た、140本くらいの映画(旧作も含む)の中から初公開映画の私的ベスト10をば(Twitterで書いた短評を添えて)。
1.『デューン 砂の惑星 PART 2』(ドゥニ・ヴィルヌーヴ)
『ブレードランナー 2049』(17)でターナーの『雨、蒸気、速度:グレート・ウェスタン鉄道』が引用されていたが、この監督の「デューン」シリーズにおける砂漠は、あらゆる物をターナーの絵の如き平面性の次元に飲み込んでしまう磁場としてある。
当シリーズにあって、主人公のポールは、常にその様な平面としての砂漠に(砂や砂虫に飲み込まれる前に)自ら積極的に身を投じることで窮地を脱する。砂漠を主戦場とするアトレイデス家の長男に対峙するのは、全ての色を殺す太陽が支配するジエティ・プライムからの刺客、フェイド・ラウサである。
大スクリーン上の色の対決を堪能するにはグランドシネマサンシャイン池袋のIMAXがお勧め(再上映希望)。いずれにせよ、一口に「絵画的」と言っても、本作の「平面性」と、R・スコットが『ブレードランナー』(82)で示したファン・アイク(鏡)やレンブラント(光と陰)の様な「奥行」とでは、実に対照的だ。
✳︎ついでに以下もよろしければ。
2.『ドライブアウェイ・ドールズ』(イーサン・コーエン)
女2人が結婚というハッピー・エンディングに向かって漕ぎ出すとき、男は(既にそこに至るまでディルドに還元され、複製さえされ初めていたのだが)存在すら忘れられ、置き去りにされる。『テルマ&ルイーズ』(91)の様な女2人の悲劇に対する挽歌と見えた。
3.『破墓/パミョ』(チャン・ジェヒョン)
本作で、現在の韓国における宗教は、在地の信仰、日本から強制された神道、戦後に解放されたキリスト教という少なくとも三層の連関によって視覚化される。だからこそ、地官、巫堂たる者は、その人がどの層に祟られているのかを見誤ってはならぬ。いや、それ以上に…映画史上最も美しくも凄まじい「火の玉」に刮目せよ。
こう言っては何ですが、本作は、怖くはありません。怖くないホラーが素晴らしいと思ったのは初めてかも知れません。あとは『雨月物語』ですよ、本作が参照しているのは。なんか勘違いしている「考察」動画を見た様な気がしたので。そういえば、『雨月物語』は、「水平軸で」健気にも恐ろしい田中絹代お化けを顕現させた、比類なき映画でした。
4.『雨の中の慾情』(片山慎三)
事前情報なしで鑑賞。最初は18禁版の林海象映画みたいだなと心配した。とはいえ、すぐに安手の「郷愁」は本作で否定されていると分かり、そこからはのめり込んだ。主人公の様子から想像はついたが、それが水木しげるに接木されるに及んで、つげ義春原作ものと確信した。
ちなみに、この映画を見て(つげを読み直していない現段階で)私の頭に浮かんでいるのは大友克洋の「夢の蒼穹」だ。それはともかく、詳しくは言えぬが、本作のあの場面は真に映画的瞬間としてあった。台湾というポストコロニアルな状況にある土地でロケし、そこから日本を逆照射している所も素晴らしい。
パンフレットによれば、元ネタとしては、つげの「雨の中の慾情」、「池袋百点会」、「隣の女」、「夏の思いで」の合わせ技だ。それでもって、読み直したら、映画の冒頭は「雨の中の慾情」の構図をかなり忠実に再現しようとしている。映画的運動をそこに付与しながら。いやはや、これは大した漫画映画だ。
5.『Cloud クラウド』(黒沢清)
銃撃戦については色んな論者が既に触れているだろう。私が思うのは、黒沢の主要登場人物は余りに無表情で、その前後に挿入されるショットとの組合せから観客が受ける心理的作用は殆どクレショフ効果のそれなのではないかということだ(社会の闇、善悪などそこにはない)。
しかし、ガラスや画面の「曇り(cloud)」は、一人一人の「顔」の輪郭を曖昧にするが故に、その様な反映的心理効果の連鎖を失効させ、却って主人公の顔に恐怖の色を植付ける。それに「立方体」(ダンボール、倉庫部屋、工場、バン)或いは「筐体」(医療機器、コンピュータ)モチーフの連鎖による作劇の妙。畢竟、佐野は「箱」を開ける人なんだな。
6.『動物界』(トマ・カイエ)
原題“Le règne animal”は生物学(分類学)上の用語なので邦題は全く以て正しい。ただ内容からは「動物の支配する世界(王国)」の到来という含意を見て取れる。「人間」から「動物」、「言語」から「叫び」へ。「想像界」への消極的退行ではなく「現実界」への積極的逃走、いや「生の跳躍(elan vital)」を描く。
これは思春期を迎えた息子の出立を描く寓話だ。母親も既に「動物界」に去っており、「父(夫)」だけが(「象徴界」の様な)そこに残される。かつて母子が大自然を前に言葉を失っているとき、父はメカニカルな機構を「サブライム(崇高)」と形容した。息子はそんな「男」にはならないと笑い、巣立って行く。
7.『流麻溝十五号』(ゼロ・チョウ)
50年代初頭の台湾、緑島(火焼島)。政治犯に再教育を施す為の「新生訓導処」に収容された女たちの苦境・苦悩を描く。看守に内容を悟られない様にと日本語で交わされる会話が端的にポストコロニアルな状況を示す。これは「他山の石」ではない。『返校』と併せて見たい。
「考えること」が罪とされる世界で、「杏子(きょうこ)」は絵を描くことで心を保とうとする。その行為は他の女たちの心にも影響を及ぼし、いっときの笑顔すら齎しもするが、悲しいことに、そこで描かれた彼女たちの姿は、その後、殆ど遺影としてしか機能しない。本作自体が「死の記憶」たる所以である。
これは明らかに女性の「間身体」的メロドラマであり、妹を失ったと知り入水を試みたダンサー(陳萍)が、自分を救おうとして後追いし却って溺れた杏子を助けに戻る場面には、涙を禁じ得なかった。女子供の手になる「絵」やそれを描く身体に対置されるのが、独裁者にも似た為政者の「書」のあり方である。
8.『ザ・ウォッチャーズ』(イシャナ・ナイト・シャマラン)
あのガラス張りの部屋の、外からはテレビ画面にも映画のスクリーンにも舞台にも見え、しかし一度内側に入ればガラスが鏡と化すという仕掛けに感心した。窓の向こうにいるのは、演じ手に感情移入するどころか完全なる同一化を望んでいる理想的な観客だ。
そんな素晴らしい方々に演じ手かお尻を向けてはいけないのは当たり前だ。ついでにいえば、演じ手が第四の壁を破ってはいけないのも、常に照明の当たるところにいなければならないのも当然だ。詰まるところ、あれら窃視者は、自分は見られることなく、安全な位置からこの映画を見て楽しんでいる私達だ。ラストでは、もう一つの仕掛けたる鏡(マジックミラー)が、ヒロインの境遇を巧みに表現していたことに気付かされる。
まぁ、もちろん、以上のことは、父シャマラン譲りの無茶苦茶な設定を甘受できれば、の話であります。あとはファニング姉妹のどちらかが出てる映画なら全部素晴らしいということです。
9.『アビゲイル』(マット・ベティネッリ=オルピン/タイラー・ジレット)
古い屋敷が舞台の◯◯◯ものなので『フロム・ダスク〜』や『シェアハウス〜』っぽいし『フライトナイト』感もある。ヒロインも『インタビュー〜』のK・ダンストや「トワイライト」の姉ファニング(+ミーガン)を思わせる。要はかのジャンルの集大成。文句なく面白い。
「父」によって屋敷に閉じ込められる「女」の恨みを描いている所は『ジェーン・ドウ〜』に似ていて、「女」は「父」の人形に過ぎないという意味では『バービー』に近づく。共通するのは『人形の家』(イプセン)のプロットでありヴィクトリア朝期の女性作家による「幽霊屋敷」もののフォーマットである。他にも色々ありますね。まあ、ですから、「いいとこ取り」の見て損はない映画です。
マルクス以来、◯◯◯(もはや伏字にする意味がないけど)は資本主義者の謂で、そのイメージが今、臆面もなく大々的に再利用される(しかも古臭い父権表象を伴って)のは、やはりE・マスクに象徴される白人億万長者が貧困層を搾取することで成り立っているのがこの社会だという実感あっての事でしょうね。少女◯◯◯は、それを内部から崩壊させるかもしれない、ある種の希望なのであり、ヒロインとの共闘も、ひとえにそこから生じる訳です。
10.『オッペンハイマー』(クリストファー・ノーラン)
本作についてはまだ何も書いていません。いつか書きます(乞うご期待)。私がノーラン作品で注目しているのは「重力」の表現です。D・ヴィルヌーヴとは別のやり方でIMAXを使った新しい表現を目指していると思います。
※ということで、それまでは私が執筆した他のノーラン作品評をどうぞ。
次点(ご要望があればこちらも記事化します)
『ヒットマン』(リチャード・リンクレイター)、『密輸 1970』(リュ・スワン)、『Shirley シャーリイ』(ジョセフィン・デッカー)、『劇場版モノノ怪 唐傘』(中村健治)、『Chime』(黒沢清)、『リンダはチキンがたべたい!』(キアラ・マルタ/セバスチャン・ローデンバック)、『フォールガイ』(デイヴィッド・リーチ)、『トラップ』(M・ナイト・シャマラン)、『ツイスターズ』(リー・アイザック・チョン)