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【映画評】ザック・スナイダー監督『300〈スリーハンドレッド〉』(300, 2007)

ミラーとスナイダー—ヘロドトスの末裔

 『300』はフランク・ミラーの同名のグラフィック・ノベル(平たく言えばアメリカの漫画)を映画化した作品だ。この映画はペルシア戦争(前500~前449)中に起きた実際の合戦、即ち紀元前480年にギリシア半島中部で戦われた「テルモピュレーの戦い」の様子を描いている。古今東西、ペルシア戦争にまつわる「物語」は、同時代史家たるヘロドトスの著作(『歴史』)を嚆矢として今日まで脈々と語り継がれているが、映画『300』もそのようなペルシア戦争譚の系譜の最後列に位置付けることができよう。
 そもそも、ペルシアの大軍に立ち向かい死んでいったスパルタ兵の数を指す『300』というこの映画のタイトルそれ自体が、上記大歴史家が書き記した文言「全軍三百人」に由来するのである。だから、もし、ヘロドトスの記述を「現実の歴史」の反映と見るのであれば、当然ながら『300』も「現実の歴史」を反映しているといえようし、さらにいうならば、昨今の歴史学の成果を踏まえたと思われる描写も本作には少なくないのである——例えばファランクス隊形をとる重装歩兵の様子やリュクルゴス体制の描写がそうである。

新古典主義に基づく友愛

 とはいえ、原作グラフィック・ノベルの世界観に傾倒しこれを再現しようとしたザック・スナイダー監督は、本作でコンピュータ・グラフィックを多用している。そのため、この映画は他方で、歴史的事実に反する描写をふんだんに含むこととなった。例えば、スパルタ軍の精鋭300人の武装である。あろうことか、彼らスパルタ兵は、兜と楯、それにマントをこそ装備しているものの、それ以外にはほとんど何も身に着けていない。裸同然の格好をしているのである。
 おそらく、これは、原作者ミラー、それ以上に監督スナイダーが新古典主義時代(18世紀)の画家ダヴィッドの「テルモピュライのレオニダス」(1814)(左図)を見て影響を受けた結果だろうと私は踏んでいる——ダヴィッドはそこでレオニダスらを裸の姿で描いている。もしこの見立てが間違っていなければの話だが、結局、『300』において重視され、また再現されたのは、実際の歴史というよりは、「人間(男)」の裸(肉体美)に象徴されるような古典古代の芸術的雰囲気、あるいはホモエロティシズムと見まごうばかりのホモソーシャリティ(男同士の社会的友愛)だったのではないだろうか。この他にも、ペルシア王クセルクセス1世の背丈が異常なまでに高かったり、スパルタの神殿における宗教的儀式の様子が妙に魔術がかっていたりと、「自由な歴史叙述を行った」といわれるヘロドトスもかくや、と思われるようなスペクタキュラーな演出をスナイダーは随所にほどこしている。

歴史・物語

  しかし、「ヒストリー」とは「歴史」であると同時に「物語」でもある。ヘロドトスであろうが誰であろうが、いかなる人間も「現実の歴史」を ——仮にそれが自分の目前で起こっていたとしても——客観的かつ十全に理解したり描写したりすることなど初めからできないのであれば、『300』という「物語」を手掛かりに実際の「歴史」に思いを馳せることは、それほど荒唐無稽な試みとはいえないのではないだろうか。

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