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【試訳】ジャン=ピエール・レームによる『いのちの食べかた』(2005) 評(Jean-Pierre Rehm, Cahiers du cinéma, mars 2007, 31-32)


「節度ある消費を」

 カメラが十字架を切るのを我々は今までに一度でも目にしたことがあるだろうか。前後に動いた後に横に動くのだから、それは厳格で非常にカトリック的な動きだといってよいのだが、そこには、冷淡な固定ショットを除けば、オーストリア人ニコラウス・ガイルハルターの目つきが反映されている。この動きが天の啓示なのかそれとも悪魔を祓うためなのかは、それぞれが己の胃の強度において判断すればよい。最大限に近代化されたヨーロッパ農家の中で二年の歳月をかけて撮影された『我らが日々の糧(パン)』は、我々の食糧を統御する高度に機械化された作業の様子を詳細にたどる。なじみ深い類のもの(牝牛、豚、雄牛、雌鶏、ひよこ、ズッキーニ、ヒマワリ、オリーヴ)に満ち、ときにはそれらを同定することも覚束ず、しかもあまりに大衆的で高密度なので、あたかも塚本の『鉄男 TETSUO』(注1)のように機械にもつれ込んでいるようにさえ見えるこの世界は、日の光にさらされていながらも見えない場所にあるのだ。見えないというのは、ごくたまには几帳面にすら映るのだが、いかんせん描写として露骨であるこのような映像の数々が決して我々の広告ポスターに用いられることがないからである。とりわけ、ガイルハルターは、スキャンダラスにエコロジックであるもう一つのオーストリア映画、“We Feed the World”(注2)のようなやり方、つまり説明や解説をなんの恥じらいもなく織り込むやり方よりも、沈黙をして語らしめる方を選択したのである。
 もし、屠場を幻想的な恐ろしい舞台裏に変えた1949年の『家畜の血』(注3)において暴力と沈黙との出会いがすでに達成されていたとするならば、ここにみなぎる沈黙はまさに我々の時代のものである。そこは一見平穏に見えるが実際には巨大な牢獄なのであり、動きや物音は押し殺されている。家畜たちのおびえ、そこで働く男たちと女たちの短いやりとり、機械たちのうなりやつぶやき。高度に安全の保証された広大な空間にあってはそれらすべての音が息苦しい。ノルマにしか関心の払われないこの空間で、命あるものたちを仕込み、攪拌し、秩序立て、処刑するのは、至高でありながらも言葉を持たない、そして生命の力がくぐもった「音」である。果物の収穫、穀物の刈入れ、帝王切開による仔牛の誕生、人工授精、包装、産卵、荷詰め、屠殺、分類、解体、消毒等々の行為を捉えたショットがこれといった順序もなく次から次へと続く。思いがけず卑猥にすら映りもするこれらの映像の合間に、カメラは、休憩中の数少ない労働者たちが軽食をとる様子を完全にシンメトリックな構図において捉える。
 この厳格でシステマティックな記述行為は圧倒的なものだ。だが、それがもし明晰さというメリットを持っているとすれば、目新しさは代わりに失われてしまうことになる。これまた1949年のことであるが、ハイデッガーが行った悪名高き「転回」とこの作品が共鳴するのを耳にせざるをえないからだ。常に連合側の監視下にあったかの哲学者は、そこで、機械化された農業(当時は主にアメリカとソビエトの影響下にあった)をナチスの大量殺戮技術に、飢饉の原因となった包囲に、そして水素爆弾の製造に密接に関連付けた。ラディカルであらんがための、また意見を提示するというよりは思考することに主眼を置いたこのような政治的混同は、好むと好まざるに関わらず、深刻な問題を喚起せずにはおかない。まあ、しかし、我々にはここでこの問題を解いている時間はないのだから、それは他の誰か、専門家にでもまかせることとしよう。彼の帰還を我々に再検討させることになったのは、ここ、映画館なのだ。
 なにしろこの『我らが日々の糧(パン)』は多義性を自家薬籠中のものとしているのだから、逆説的ではあるけれども、本作の冷酷なまでの効率性もまた多くの意味を含んでしまうことになる。この映画の技術が、ここにきて、それ自体一言も発さずに告発する録音機械と結託し共犯関係を確信犯的に持ち始めるのもそういったところを通過しているからなのだ。それら数々のショットの冷ややかですらある美しさ(他になんといえよう)は、何も饒舌を排したところばかりに帰着するものではなく、労働者たちが血の染みを消すためにホースで水をまく最初と最後のシークエンスによって強調される衛生第一主義にもよっている。その美しさは、やはり完全にこの映画自身の利益のために捧げられているのであり、それは最大限の効果を発するよう堅実に、さもなければシニカルに計算されているのだ。
 その意味において『我らが日々の糧(パン)』は、決して皮肉ではなしに1934年に撮られた田園賛歌映画、ニュー・ディール・イデオロギーを混同したソビエトの生産至上主義の熱狂に影響されているかのキング・ヴィダーの同名作(注4)のほろ苦い「リメイク」となっているといえる。また、本作におけるヒッチコックの引用についても上記文脈から理解することができよう。つまり、『北北西に進路を取れ』(注5)のあの悪役複葉機が、ここではヒマワリ畑の上を飛ぶのを我々は再び見るのだが、もはやそれは、かつて意図的に演出されたギミックとしての機能を果たしてはいないのだ。この飛行機械はガイルハルターの映画はもちろん、明らかに映画一般のメタファーとなっている。もうお分かりであろうが、それは、上空における曲芸的急旋回をこれみよがしに行った後に、我々の目に向けて死の粉末を散布しにやってくるのである。このオーストリア人はそれを「知りすぎていた男」なのである(注6)。

訳者注
注1:塚本晋也監督『鉄男 TETSUO』(89年、日).
注2:Erwin Wagenhofer監督“We Feed the World”2005年、墺).本作については近くレビューをアップする予定である。
注3:ジョルジュ・フランジュ監督『家畜の血』(49年、仏)。
注4:キング・ヴィダー監督『麦秋(むぎのあき) Our Daily Bread 』(三四年、米).
注5:アルフレッド・ヒッチコック監督『北北西に進路を取れ』(59年、米).
注6:いわずもがなであるが、ここではヒッチコックの『知りすぎていた男』(56年、米)が意識されている。

Rehm, Jean-Pierre, “Prière de consommer avec modération” in CdC, n° 621(Mars 2007): 31─32. S
ニコラウス・ガイルハルター監督『いのちの食べかた』(Our Daily Bread, 2005)。


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