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【映画評】デイヴィッド・ロウリー監督『A GHOST STORY ゴースト・ストーリー』(A Ghost Story, 2018)。

“Whatever hour you woke there was a door shutting.”
“"Safe, safe, safe," the pulse of the house beat gladly. "The Treasure yours."”
A Haunted House, Virginia Woolf

フランスでの低評価

 ギレルモ・デルトロが賞賛し、日本でも蓮實重彦が絶賛したせいかやけに高く評価されているこの映画だが、フランスの『カイエ・デュ・シネマ』誌の批評家、シャルロット・ギャルソンは「この設計図の凝り具合にはスノビズムがある。映画が勿体ぶってるし気取っている」とにべもない(下記ポッドキャスト参照)。
 確かに、ルーニー・マーラがタルトを丸々(半分?)食べ続ける前半のシャンタル・アケルマン風長回しに何の意味があるのか今ひとつ分からないし(まぁ悲しみの表現なのでしょうけど)、ケイシー・アフレックのハロウィン風お化けはただのストーカーにしか見えないし、つまり、これもギャルソンたちが言う様にこの映画には「他人」がいないのである。

無時間性の歴史劇

 面白かったとすれば、この映画が『インターステラー』(2014)や『メッセージ』(2016)、『TENET』(2020)等の最近のSF映画と同じ物語的傾向——歴史はあらかじめ決められていて変えられない、即ち繰り返す――を持つということだ。これはロウリー監督の近作『グリーン・ナイト』(2022)でもそれこそ繰り返されていた主題である。アーサー王物語における一挿話を扱っていた当作では、「円卓」の円環性をきっかけとして、これを水平軸におけるカメラの回転運動へと変換し、それによって今度は時間を高速度で経過、循環させ、遂にはあろうことか、歴史劇の中で、むしろ無時間性を表現していた。

「白いシーツ」のアメリカ映画史

 しかし、それよりも興味深い、というよりは問題と思われるのが、このアメリカ映画における幽霊の白シーツの扱い方だ。幽霊がタイムスリップした先の一つが西部開拓時代で、恐らくたまたまであろうか、そこに佇む彼の白シーツ(写真右)が『國民の創生』(1915)で「黒人」の子供たちを怖がらせた件の白シーツ幽霊——それに扮しているのは「白人」の子供たちである——を、さらにはそれをヒントにして生まれたKKKの扮装(写真左)を想起させるのである。今どきネイティヴ・アメリカンを完全な悪役にしているのも大いに気に掛かるところだ。しかも「白人」の「白さ」の象徴に他ならないシーツを被ったお化けは、実際には自分が目撃していないし、スクリーンもまたそれを映し出さないにも関わらず、彼らネイティヴ・アメリカン——つまりは不在の指示対象——が「白人」一家を無慈悲にも皆殺しにしたと示唆、いや告発するのである。『國民の創生』における「非白人」の扱い——そこで「黒人」に扮していたのは、ミンストレル・ショー同様の「ブラック・フェイス(黒塗り顔)」の「白人」だった——とこの映画のそれのどこが違うというのだろうか。そんな疑問を、この白い幽霊は私に投げかける。

〈引用文献/サイト〉Virginia Woolf, A Haunted House and Other Short Stories, London: Hogarth Press, 1944/フランス・キュルチュール『ラ・ディスピュート』(ポッドキャスト):https://www.franceculture.fr/player/export-reecouter?content=a4bb7355-ceed-48e6-96a3-0ce832cc5a22

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