【試訳】J・バートによる『ブレード・ランナー』(1982)論(Jonathan Burt, Animals in Film, Reaktion Books, 2002, 72-78)
映画は観客が「見る」のを制限することで自らを利する。故に「見る」ことと「知る」ことのの間には不一致が生じる。
特に「知る」ことに関する問題の含みについては『ブレードランナー』(以下BR)における動物の役割を見ればよく分かる。本作の鍵である曖昧さは、ブレードランナーのデッカード自身が人間かどうかという所から生じ、それはどうすれば己が何者かを確実に知り得るかという我々の認識論的問題に転ずる。だが、BRでは人かレプリカントかどうかを試験する際、動物に関する質問への眼の反応を見る。眼(虹彩)はうっかり非人間性を露呈する。エリッサ・マーダーは、既に滅ぼしてしまったらしい動物へのノスタルジックな共感を喚起することでしか人が人であることを決定できないこのテストは皮肉だという。動物は特に、認識的反応ではなく身体的反射によって測られる人間の質に、よりよい示唆を与えてくれそうだ。本作は人間の状況を記憶と意識の問題として提示する点で曖昧だが、動物の形象を使うことで人間を区別しているので、人間の質が動物によって否定的に定義付けられる際の認識の痕跡を伝えている。自然秩序の伝統的な概念が、多面的なベニヤ板でできた産業的環境の下に隠されてはいるが、これはその実、『白鯨』同様、ハンターが獲物ともなる狩猟映画だ。デッカードのレイチェルへの愛情が増すほどに、彼もまたレプリカントであるという可能性が増す。そしてついには彼自身が追われる身となるのだ。(瞳を拡大するテスト装置の)レンズと銃の両方を持つデッカードは、写真家と狩猟愛好者の共通性を想起させる。タイレル社を頂点とするヒエラルキーは視覚的に明白だ。人型レプリカントの創造者、タイレル博士は宮殿に住む白人で、熱帯雨林のような街に住む人工動物製作者を含む底辺の人々は非白人だ。BRでは動物がトーテム的役割を果たす。タイレルは鳥、デッカードは白いユニコーン、ロイ・バッティは白い鳩に関連付けられる。動物型レプリカントもまた高価なのは、それらが外来の存在であるからだ。つまり動物はファンタジーに欠かせないのであり、その存在は人間のごった返す世界で屹立している。眼と動物の間の持続的な関係が表面の事柄と視覚的作用・反作用にも繋げられる。テストでのレプリカントの動物に対する反応は、単に情動的である以上に、人間=動物関係を形式的に統治する制度を参照する。法が動物との相互作用を規制しているが故にレイチェルはテストに答える際、法的権威を召喚する。実際、レイチェルは子牛革の財布を贈った者は司法の、蝶を殺す者は医学の権威に診せるべきと答える。技術革新がもたらす認識論的疑いに纏わる問題は、既に本物の動物などいない(人工動物がトーテムでハンターが銃を持つ世界)にも拘らず、奇妙にも動物福祉という流行遅れの感情を巡って取沙汰される。批評家たちは、夢の中のユニコーンの形象からデッカードがレプリカントか否かを判断しようとしたが、R・スコットはより重要なのはユニコーンの周囲の緑の風景だという。それは産業化される以前の田園生活風の自然、映画の表面の風景に覆われてはいるが、翻訳された形で頻繁に回帰する自然なのである。BRの人工動物がレプリカントと同じラインで製造され同じ様に血を流すのなら、本作は機械としての動物のあり様に面白い見解をもたらす。それは、アニマトロニクスの帰結としての動物機械というより有機的に複製された動物という方が近い。動物はトーテム的・神話的でありながら有機的・技術的なのだ。生物学的機械としての動物。つまりBRにおいては動物は純粋なノスタルジアの対象であり、かつ失われた「自然」の象徴なのだが、ここで同時に動物が未来性をも付与されているのを忘れてはならない。この二極性は近代の動物観と符合する以上に、歴史の推移に対して動物が関わる両義的な状態を示唆する。動物は、近代的な性格については技術との関係によって規定されているにも拘らず、その神話的なあり方は無時間的な何かを指し示す。BRの美学は40年先を行くハイテク・セットと40年前のオールド・ファッション・スタイルを結合するもので、それもまた作品に歴史的に確定できない層を付与している。映画の悲劇的構造(登場人物の多くは寿命を予め定められている)さえ、イメージと時間的儚さと幻想のカオスの下に、より「自然な」周期が隠されていると告げる。BRは視覚的な証拠に対する疑念を喚起すると同時に、瞳の形象を経由して、ある確実さの表現形式の可能性をも提示しているように思われる。この難問は映画が現実性とどのように関わるのかというより大きな疑念を再演する。スタンリー・カヴェルは、映画それ自体が世界に基づく人間の主観性をスクリーニングすると同時に、懐疑論の動くイメージを提供すると論じた。カヴェルは、スクリーニングの二つの意味ー隠す/供給することーに注目する。このカヴェルの考えは、動物の形象と我々の両価的な認識との間の関係に重要な示唆を与える。BRでは、興味深くも、動物の外観はそこで疑念が宙吊りにされる幾らかの領域の一つなのだ。実際、我々は全ての動物が人工的だと認識され得ると確信している。動物の人工性は当然のこととみなされているのだ。その上、トーテム的な生き物は、人間の秩序を位置づけるのに役立つ。つまり、ロイ・バッティが死の間際に放つ(機械的な)鳩は彼の(機械的な)魂を表すのだし、タイレルの鳥は彼の一望的で捕食的な立場を知らせるのだし、ユニコーンの幻想はデッカードの記憶が幻想であることを殆ど承認するのである。だが、人工動物の形をした非–人間は、人間秩序を定義する様に思われるアイデンティティを反射するとはいえ、その秩序が崩壊する地点をもまた印づける。だからこそ映画においては、動物をメタファーとして還元主義的に特徴づけた所で、動物に十全な多様性と重要性を公平に担わせることはできないのだ。象徴のシステムが崩壊しもするそれら領域を示すことで、動物の形象は不可能なメタファーとなる。動物形象それ自体が絶え間ない変化の中にあるなら、それは何者をも象徴することができない。カヴェルは『赤ちゃん教育』(38)を追う者(追跡)と追われる者(逃走)が絶え間なく入替る映画と指摘する。かの映画では、飼い慣らされた豹と野生の豹が登場するが、この別の(ダブルの)豹は実は同じ一匹であり、秩序の崩壊と変容を同時に示している。この二匹は決して同じ画面に現われない。一匹の「ベイビー」が二つの性質を持つ。それは野生であり(隠れており)、飼い慣らされている(喚起されている)。この様な知識と承認こそが、人間に、忘我のうちに意識を崩壊させる勇気を奮い起こさせ、それによって意識を獲得させ得る。映画では、動物は実にしばしば無秩序を統轄するが、しかしまた、ある意味では、再統合や解決という形式を通じて無秩序に形を与えるのだ。BRの場合は喪失という形式を通じて。