【試訳】ニコラス・エリオットによる『ローガン・ラッキー』(2017)評(Nicolas Elliott, Cahiers du cinéma, nov. 2017)
S・ソダーバーグはここでそっと「オーシャン」三部作の公式(多くのスター+強盗+諧謔=莫大な入場収益)を、カジノをストックカー・レースに、ラスヴェガスを西ヴァージニアとケンタッキーに置き換えつつ繰り返す。手は油にまみれ日焼けで首も赤いチャニング・ テイタムのショットで開幕から告げる様に、彼はここでしばしばトランプ当選の責めを負わされる「レッドネック」=田舎の労働者階級の白人の家に—たとえ大統領官邸にいる億万長者のニューヨーカーに全ての経済層の白人が投票したと今日判っているにしても—踏込む。ソダーバーグがあまり愛されていないこのアメリカに関する紋切型と縁を切らんとしていると思うのなら、彼の意図が少々ダーウィン的であることにもまた特に驚けるだろう。実際、意に反して強盗となったジミー・ローガンが非常にうまくことを切り抜けるとしたら、それは彼が他の連中より聡明だからだ。それの何が悪いのかと言われるかもしれない。だが、他の全員が馬鹿で道化である必要があっただろうか? ソダーバーグは、本当に効果を上げている唯一のシーンが、ローガンが自らに匹敵する知性のある誰か(移動病院の医者としてのキャサリン・ウォーターストン)と出会うシーンだと気づいただろうか? 残念ながら、観客はまた、慌ただしさの最後に、説明的で安易な長いフラッシュバックによって全てが明らかにされるまでは、やけに込み入った物語の婉曲的な言い回しのせいでしばしば疎外されていると感じながら、この尊大な態度のツケを払わされるのである。