読書歴と「タイムマシン」
高校時代を思えば、自分で興味を持って読んだ本など片手に数えられるほどだ。しかし、僕は本を読むこと自体は好きだった。
小学校の頃はジャンル問わず読み漁っていた。活字中毒はその頃から続いている。
しかし、中学校に入るとラノベという存在を知り、娯楽小説しか読まなくなった。もともと「ヒックとドラゴン」のようなファンタジー小説や、SF小説が大好物だったので、オタク的素養は十分だったことが大きいだろう。
高校はほぼゼロ。正直参考書や教科書など必要に駆られるもの以外で読んだ記憶がない。いや、文芸部員の小説はしっかり読んだ。
大学に入ってからは、名作と評される海外小説を自分のペースで読むようになった。最近になって気づいたのは、自分が以前と比べて作品に感情移入できるようになったことだ。
思えば、小中までの読書では消費的な読み方ばかりしていたような気がする。例えば、愛読書「タイムマシン」はざっくり、未来に跳んだタイムトラベラーが進化(衰退)した人類相手に冒険するという内容なのだが、先の読めない展開に緊張したり、文字から想起される未来の景色にワクワクすることはあっても、登場人物に共感することはほとんどなかったと思う。
まったく逆の読み方(共感メイン)の人からしたら異端であろうが、僕は物語やその世界観に関する設定を何より大事にする、設定厨なのである。
文章がなくてもそのような設定だけでかなり楽しめるので、世界観のよく作りこまれた作品は大好物だ。
H・G・ウェルズ「タイムマシン」
昔から推しているのはさっき言ったH・G・ウェルズの「タイムマシン」だ。
この作品は1895年に発表され、タイムマシンという乗り物が初めて登場した作品として知られている。こう聞くとドラえもん的なタイムマシンの原型のようなものを想像するだろうが、現代のイメージとほとんど差異がないのは興味深いポイントの一つだ。
また、この作品は、それぞれ別々に進化した未来の人類「イーロイ」と「モーロック」との交流(遭遇?接敵?)もさることながら、節々の情景描写がたまらなく良い。
時代が時代なので、この作品には資本主義に対する批判が隠されている。ネタバレになってしまうが、未来の人類「モーロック」は地下で働く労働者たちのなれの果てであり、地下の生活に適合したために視力が弱く、日中は活動できない。一方「イーロイ」は資本家たちの成れの果てであり、美しい庭の宮殿のような住まいに住みながら、闇を極端に恐れる。どちらも言葉を失っているが、攻撃性は対照的だ。
モーロックは祖先が建設した地下で生活しているのだが、その機構にはパイプや歯車が登場し、非常にスチームパンク的な描写となっている。ウェルズにとってはそれが未来の姿であったのだろう。
そのため、彼の時代より未来を生きる我々は、過去の人々が夢想した情景を、後方腕組みおじさんとして楽しむことが出来るのだ。
この物語の主人公は紆余曲折あってタイムマシンをモーロックから取り戻すのだが、その拍子にさらなる未来へタイムトラベルすることになってしまう。彼は人類が完全に滅亡した後の様子や、代わりに繁栄する生き物の世界、太陽がのぼる周期が変わり、膨張した太陽によって生き物が生きられなくなっていく世界を目にすることとなる。
そしてわたしは旅を続け、地球の運命の謎に惹かれて、千年以上の大幅な間隔で何度も繰り返し止まってみました。奇妙な感動をもって、西の空で太陽がますます大きく鈍くなり、古い地球の生命が衰退するのを眺めていましたよ。最後に、3千万年後、太陽の巨大な灼熱のドームは、暗い空のほとんど1割も占めるようになりました。そしてわたしはもう一度止まりました。というのも這いずる無数のカニが消え、そして赤い浜辺は、生き生きとした緑の苔類や地衣類をのぞけば、生命が消えたようだったからです。そしていまやそこは白いものが散っていました。刺すような冷気がわたしを襲います。白い雪片が絶えず繰り返し舞い降りてきました。北東部では、雪の照り返しが陰気な空の星明かりの下に横たわり、波状の丘の頂がピンクがかった白となっているのが見えます。海の水辺には氷のふちができて、沖には大きな流氷も見られます。でも塩水の海のほとんどの部分は、永遠の日没の下で血のように真っ赤でしたが、まだ凍っていませんでした。
翻訳: 山形浩生
その情景のどれもが新鮮で、まるで地球の終わりをその眼で見たかのように焼き付いて忘れることが出来ない。もし何か一つ願いが叶うとすれば、実際にその姿を見たいと思うほどに恋い焦がれている。
既にパブリックドメインとなっているので、ネット上に全文訳が公開されている。僕が読んでいたのは子供向けの文庫版なので、少々読みづらいが気になった方は是非目を通してほしい。
リンク:The Time Machine: Japanese (genpaku.org)