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悪夢と両親
体調が悪いとき、いやーな感じの夢をみてうなされる経験は、誰にでもあると思う。でも各々の「怖い」と、その表出の仕方には個人差があると思うので、それを共有するのってかなり面白いのではないだろうか。
という事で、今回は自分が覚えている限りの怖い夢を頑張って思い出してみようと思う。言語化が非常に難しいので温かい目で読んでもらえるとありがたい。
まずは僕にとっての悪夢、栄えある第1位は、よくわからない何かに大声で怒鳴り続けられる夢である。これは小学校くらいの間まで、高熱を出す度に必ず夢に出てきた。
悪夢の内容
内容はこんな感じ。自分は見覚えのない部屋の中で、何かしらの課題(魚を模した積み木みたいな何か)に取り組んでいるのだが、何をしたらよいかわからない。おろおろしていると、何かを失敗してしまったようで姿のない若い男に大声で怒鳴られ続ける。いくら泣いてもそれは止まらない。
書いていて思い出したのだが、イメージは古代エジプトか何かの遺跡のような部屋の中で、魚の課題もそれっぽいデザインだったように思う。
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怒鳴られ続け、泣いてしばらくすると、そのうち僕はいつの間にか母に慰められる。そしてまた少ししてあの部屋に戻される。そういう夢だ。
どうしてこのような夢を見たのだろうというのは、実は何となく分かっている。原因となっている出来事は、冬休みの宿題として出されていた、毎年の書初めだ。
トラウマの書初め
僕の家はそのような課題には全力で取り組ませる家だったので、父も母も僕以上に真剣だった。特にひどかったのは書初めで、1月2日の書き初めになると親が納得がいくまで何枚でも書かされた。自分の部屋にこもり、午前中いっぱい書き続けて、だいたい2日か3日くらい。今と比べて1時間が長かった少年時代、それは永遠に続くようにも思われた。
納得するものが3、4枚出てくるとようやく小筆を持って名前を書く段階に入ることが出来る。手が震えないようにしながら、集中して取り組むのだが、どうしても筆が思うようにいかず、一番上手に書けたものが台無しになってしまう事もあった。その予備として何枚か用意されているのだが、そういう時、母は慰めるでもなくしっかり「もったいない」と口に出してくるので苦しかった。
僕は左利きで、当時書道教室に通っていたのだが、そこの方針で書道をするときには右で書かされていた。それ自体何も思わなかったが、その書初めの時は、自分が右利きで生まれなかったことを本気で恨んだ。
結局、昔も今も、どうして両親がそれほどこだわっていたのか理解する事ができない。
このくらいでいいよ、という言葉はいつも聞き入れられなかった。
納得させられるものが書けなければ、この苦行は終わらないかもしれない。そう思いながら、両親の顔色を窺いつつ、淡々と試行錯誤するのは孤独だった。その間、両親は弟2人の宿題の面倒を見たり、世話をしていたりしたのだが、ドア越しにリビングの談笑やテレビの声が聞こえてくるのは特に辛かった。苦行の成果もあってほぼ毎回一番上の賞をもらっていたのだが、それは、僕にあれだけやったのだからこのくらいは、というくらいの感慨しか与えなかった。
また、父は自分の字と自分の字を比べ、どちらがよいと思うか選ばせたことがあった。当時の僕はものすごく悩んだ。正直なところ、好きな形だったのは自分の字だったのだが、父の意図はなんとなく察していたので、それを選んだら怒られるであろうことも分かっていた。でも、その時はなぜか、自分の書いた字の方がいいと正直に伝えてみようと思ったのである。怒られるだろうけど、きっと大丈夫だろうと。
その結果が、頬への平手打ちだった。勇気を出して、初めて自分の意見を伝えた結果が、「生意気な事言いやがって」という言葉だった。僕はひとしきり説教を受けた後、父の望む「の」を黙って練習した。涙は出なかった。
あの時の気持ちはきっと生涯忘れないだろう。
なんで自分だけ、といつも思っていたし、自分は両親に愛されていないのだという認識を強く持つようになった。当時の両親の年齢にだんだんと近づいていく中で、自分にリソースを割けなかったのは致し方なかったという事も理解できるようになってきたし、同情というか、大変だったのだろうなと共感することも増え、当時の怒りや悲しみが薄れる事も増えた。でも、愛されていないという認識だけは薄れる気がしない。
あるあるだと思うのだが、大抵厳しい躾や制限がされるのは長子までであり、その後はゆるくなっていくものだ。いくら不平等を訴えかけたところで、「お兄ちゃんなんだから我慢しなさい」という言葉をいただくだけ。この虚しさというか、今まで信じて守らされてきたものはなんだったの?という気持ちが、多くの長子に理解していただける事を願うばかりだ。
結局この慣習も、僕が卒業した後に自然消滅した。
夢と符合する点
夢に話は戻る。僕がこの悪夢の大本がこの書初めの出来事であると考えたのは、いくつか符合する点が見られるためである。
まず、魚の課題は書道ではないかと思う。なぜ魚の形をしていたのかは皆目見当がつかないが、絶対的な正解がなく取っ掛かりがないという点で符合する。
次に若い男の声は、多分父の声だ。これについては何となく確信めいた何かを感じる。実は私の父は大声で怒鳴るような怒り方はしないのだが、昭和的なしつけはする方だったので、勝てない力の差というイメージが具現化したものではないかと思う。
最後に、しかし僕が個人的に腑に落ちないのは、なぜ縋った先が母なのだろうという点である。この書道の件に関して母が手伝ってくれた記憶はないし、父が恐ろしい謎の声として登場しているとすれば、母もそちら側にいてもいいはずではないか。結局、完全な味方でないとしても頼れる先がそこしかなかったということなのだろうか。
まぁ、夢というのは曖昧なもので、印象に大きく左右されるものだ。このように分析したところで単なるこじつけに過ぎない。
これまでで僕の両親について悪いイメージを持った方もいると思うが、昔の真相はどうあれ、現在は落ち着いており、理不尽なことを押し付けてくるタイプの人たちではなくなっている。大学受験の際には進路について尊重してくれたし、父が腹を割って話をしてくれたのがきっかけで、それまでと比べて僕と両親の仲は(多分)良好である。10月には父と2人で屋久杉まで行く事にもなっている。
最近見た悪夢
それでも最近、ある夢を見た。その夢では、僕は家族で食卓を囲んで食事していた。でも、他の家族にはなんの変わりもないのに、何故か僕の白ご飯は鉄の味がして、ジャリジャリと最悪な触感がした。たまらず手に出すと思った通り、オレンジ色の鉄さびで、それを訴えても母は取り合ってくれなかった。父も、兄弟も助け舟を出してはくれない。
僕は、両親は何不自由なく生活させてくれ、大学までお金を出してくれているだけで本当にありがたいと考えている。
それだけで満足だと考えていたのだが、多分心の中で、まだ両親に対する折り合いがついていなかったのだと思う。
他の家族や兄弟と比べてうちは関係が希薄だと思う。旅行にもいくし仲は良好だが、ここが自分の居場所であると思う事が、僕は出来ずにいる。
つまるところ、寂しいのだ。でも、その機能をほかの関係に求める事はできない。そもそも、家族とすらまともな絆を結べない人間が、社会と相互の関係を結ぶことが出来るかは甚だ疑問ではあるが。
願わくば、こう思っているのが僕だけで、ただの勘違いあってほしい。そうすれば、僕がもっと心を開いていけばいいだけの話なのだから。
おわりに
ここまで読んでくれた方、本当にありがとうございます。暗い内容だし、考えや立場の偏りもあったと思うので、とても読むに堪えないものになっていた事でしょう。この文章では前向きな姿勢や改善に向けての動きは書いていませんが、おいおい、しっかり向き合っていこうと考えています。最後に、これらの体験は僕の一部ではありますが、僕の全てを規定するものではない事をわかっていただけると幸いです。