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あささんぽ

 早く起きてしまったので、気まぐれにちょこっと散歩してみる事にした。おぼろげながら浮かんできたんです。このタイトルが。

 時間としては15分くらい。歩いて3分くらいの大きめの公園を一周してみた。まだ本格的に暑くなる前の時間帯だけれども、前日の雨も相まってとても蒸し暑い。道に落ちた葉っぱやらが発酵して独特のにおいがする。

セミの声がうるさい。この公園はいたるところに桜や杉が植えてあるので、生死を問わずいたるところにセミがいる。この時期、夜になるとその辺を歩いている羽化目前の幼虫を捕まえて家の中で羽化させていた事を思い出す。

田舎育ちの母はその辺寛容だったなと思う。羽化するセミを見たことがあるだろうか。羽化したてのセミは全身が柔らかく危険なため、固くなるまで抜け殻に引っ付いて待機しているのだが、その色は青白く、まるでこの世のものとは思えない。昨夜の白いセミはどうなったかなと起きてくると、しかし、あれだけ美しかった彼は知らぬ間に見慣れた茶色い姿で何食わぬ顔をしているのである。

 運動していると脳の働きも活発になるというのは本当らしい。何やら余計な考え事もよく進む。


今日考えていたのは、「自分にとっていいこと」とは何ぞやという話だ。

今日の考え事

朝、散歩するのは気持ちがよかった。良いことをすると気持ちがいい。

でも、この良いことって、一般に科学的にいいとされていることであって、つまり僕は散歩そのものに気持ちよくなっているわけではなくて「いいことをしている感」に心地よさを感じているのではなかろうか。

昨今、健康だの美容だの投資だの勉強だので、「良いこと、良いもの」として様々なライフスタイルや人生哲学、方法論が乱立している。ジョージとかね。スタバでMac=イケてる、みたいのも同じ。あとwakatteとかもそうかな。

そういう事をその通りにやるメリットは、一般的にイケてると思われるイメージで自分の外側を補強できることだと思う。人が服によって社会的、文化的なイメージを着るように、僕たちはそういうイメージを着て生きている。そういう行いは大体気持ちがいい。

自分の事を自分なりに表現していく事は難しいし、場合によってはダサいという世間の評価と戦っていかなければいけない事もあるだろう。「良いことをしている感」の気持ちよさの源泉は、自己表現の重荷を放棄して、そういうイメージに責任を丸投げする事にあるんじゃないだろうか。

 じゃあ、自分にとっての「いいこと」、自分を本当の意味で満たしてくれるものはなんなんだろうか。バリバリ働いて、自分の能力を認められ、年収2000万くらいもらえたら最高だなと思うけれども、これにはだいぶ「成功」に対する画一的なイメージが含まれていると思う。自分は何を実現することが第一なんだろうか。

 世界には、自分に豊かさをもたらしてくれる趣味や考え方、方法論がたくさんある。(自分だけの豊かさをもたらすものという意味で)

でも、例えばそれが世間一般で「ダサい」と言われるもので、広く認められないものだとしたら、おおっぴろげにその価値観を引っ提げて生きていく勇気はない。

もし世間のイメージに流されずに自分の豊かさを求めるのなら、それにはきっと勇気と、強い自信が必要になる。


「自分にとっての良さ」は、自らを肯定出来て初めて実現しうるものなのではなかろうか。そうだとするならば、「自分にとっての良さ」を実現する前段階として、自分の自信をつけるため、世間一般的に「良い」とされることを積み重ねていく事は必要不可欠ではないかと思う。
ただし、自己愛を育み、自己肯定感をあげるやり方は一つではないし、合う合わないがある。結局、自分の価値観に照らし合わせて、判断していく事が大事なんだろうなぁ。

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