のりかな毎日エッセイ241108:映画も見た目が9割?ジョーカー駄作という誤診(ジョーカー批評②終)
2024年11月8日、23時10分。
少し頭が痛い。急に寒くなったからかな?
昨日ジョーカー2のテキストを投稿した後、考えたこと。
今朝起きがけにExcelで書き連ねた昨日の続きを、
貼り付けて清書しようと思う。
「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」だと長いので、以後ジョーカー2と略す。このタイトルの意味については昨日考えたので。
ではでは♪
…冤罪はどういう組み合わせだと起きやすいだろうか。
例えば、いくつもの捜査を抱えている刑事と、挙動不審な中年オジサンが出会ったとき。
「人は見た目が9割」という新書が一昔前に話題になったけど。
第一印象で刑事はオジサンを犯人と「決定」するだろう。
刑事には時間が無いし、捜査に追われる中で鍛え上げられた「判断力」に自信も持っている。とはいえ…
「判断力や決断力が鍛え上げられた」というのは錯覚ではないか?
実際には、「判断や決断を留保する忍耐力が摩耗した」のかもしれない。
忙しい中で、「こいつはクロにしか見えないけど、もう少し様子を見て、聞き込みを進めてから立件しよう」という我慢強さ、慎重さ、忍耐力が失われてしまったのかもしれない。
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現代人は我慢弱くなった、とよく言われる。
映画を2時間観ていられない、拷問に感じてしまう。家に帰って10分の切り抜き動画を観てしまう。「決断力のあるリーダー」がほめそやされているけど、そういう社長や知事は、決断を留保する辛抱強さに欠けるのでは?と疑ってみることもできるだろう。長所は短所に言い換えられる。
医療現場に置き換えると、「決断力のある」医者は誤診を起こすリスクが高い。というか、誤診をも恐れない勇気のある医者というべきだろうか。
慎重な医師は優柔不断でグズでのろまといわれる。
現代はあらゆる現場で時間が無いので、それが欠点と言われてしまうのだ。
映画批評の世界も同じではないだろうか?
毎月何十本もの新作をチェックしなければならない批評家は、個々の映画を十分に診断できているのだろうか?「この映画は駄作!最初の10分見ただけでわかる!」と即断しているとは思わないけど。有名な批評家であれば仕事も多いだろうし、個々の仕事に対するバイアスも多いのではないか?ゲスの勘繰りだけど。この映画は酷評ナシでお願いします、とか。
いやきっと公正に判断しているとは思う。とはいえ公正とは?大勢の観客に理解できる作品が正なのか?ちょっと客を選ぶけど一部の客に深く刺さる作品が正なのか?金払った観客を面罵するような作品が正なのだろうか?
何が疑問なのかというと、
なぜジョーカー2は駄作だと誤診されてしまったのか?
ということなのだけど。その理由を考えている。
批評家自身が我慢弱くなったのか、我慢弱くなった大衆に合わせて、批評家の判断の基準を、忍耐を要求する作品に辛めの点を付けるよう調整してきているのか。もちろん、映画批評家一人が、俺はこの作品は最高だと思う、と言ったところで、その判断が大衆の好みとあまりにずれていたら批評家としての信用を勝ち得ないだろう。
もちろん、映画の側にも問題はある。ジョーカー2という作品は、風貌が悪すぎるし、誤解を受けてもおかしくないいでたちをしている。
まるでわざとそうしたかのように。
昨日書いた中だけでも2点、誤解を受けやすいポイントがあった。
ひとつはタイトルだ。「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」というタイトルは、「ジョーカーすなわち二人狂い病」と解釈できる。前作のジョーカーも含め、この監督は、「俺達のジョーカーに新解釈を持ちこもうとしている。ジョーカーの前身がアーサーとかいうみじめで知恵遅れの狂った男だというのか⁉ジョーカーというのは悪のカリスマ、天才でサイコパスにきまってるだろ‼」とバットマンオタクをキレさせる恐れがある。この解釈は誤解であると、本作の最後で分かる仕掛けになっているのだけど。とはいえここから先はネタバレになるので要注意。
ネタバレゾーン開始(ジョーカー観る予定のある人は注意!)
本作のラストで分かるのは、前作ジョーカーから主役となっているジョーカーことアーサーは、後にバットマンと戦うジョーカーその人ではないということだ。ある意味、アーサーがどんな悲惨な目に遭っても、そうは言っても何十年後かにバットマンと戦う人物である以上、アーサーは死ぬはずないし、死刑になるはずもない、とたかをくくっていられる。
ところが、アーサーには有罪判決が下る。
アーサーは5人殺した。その一人一人の殺人の罪について、次々に陪審員から「有罪」と告げられるシーンはなんというか圧巻だ。
有罪とはこの場合、死刑のことだ。
みじめなアーサーが追い詰められて人を殺してしまった、という弁護人の指示通り裁判を進めれば、責任能力無しとみなされて無罪を勝ち得たかもしれない。しかし彼は、自分が「みじめなアーサー」であることを受け入れられなかった。自分自身に認めさせることも、テレビ中継を通じて大勢の人々に知られることも。自分が弱者であること、人々から弱者とみなされることは耐えがたい。再婚相手の父親に暴行され、母親にレイプされた男の子であることを受け入れるわけにはいかない。トラウマを受け入れられないアーサーは、自分はジョーカーだと言い張る。自分は追い詰められて人を殺してしまったみじめな知恵遅れのアーサーなんかじゃない。自分はジョーカーだ。人を殺したのは単なるジョークだ。天才ジョーカーにとって、人殺しは禁忌ではないし、この裁判も冗談みたいなものだ。有罪が何だ。有罪でけっこう、裁判の結果なんていつでも覆せる。オレはジョーカーなんだから。
しかし彼は、本当に有罪になってしまった。本当に死刑が確定してしまう。テレビの前のジョーカー支持者たちは盛り上がる。これからもっと面白いものが観れる。天才ジョーカーが裁判所を爆破するかもしれない。あるいは刑務所を脱獄するだろうか。囚人も看守も皆殺しにするのさ。オレたちのジョーカーならそれくらいやってくれるさ。
ただ一人、死刑の決まったジョーカーだけが震えている。
彼だけは、自分がみじめなアーサーであることをちゃんと分かっている。
いや、彼の他にもう二人。
一人は彼の恋人のリー。ジョーカーにしか興味のない女。
自分はアーサーだ、ジョーカーを演じ続けるのは無理だ、とアーサーから告白された時点で、「ジョーカーで無くなった」アーサーには見切りをつけている。
そしてもう一人は、後にバットマンと戦うことになる本物のジョーカー。
アーサーと同じ監獄の中で、こいつはジョーカーの器じゃない、俺だったらもっとうまくジョーカーを演れるのに、と思っていた本物のサイコパス・ジョーカーだ。
彼がアーサーを殺してこの映画は終わる。
アーサーは何があっても死刑にはならない。彼はのちにバットマンと戦うジョーカーなのだから。だが彼は死刑を求刑され、ジョーカーなのになぜ殺されるんだ?と思う間もなく、本物のジョーカーに処刑される。
ジョーカーはゴッサムシティの中では殺されない。市民の熱狂的な支持を得ているから。ところがアーサーはジョーカーであることをやめ、代わりにジョーカーを演じることになる本物のジョーカーに殺される。
なので前作ジョーカーを見て、こんなみじめなアーサーがジョーカーの新解釈であっていい訳がない、と憤怒していたバットマンファンの誤解は解けるはずだ。映画のラストで、ダークナイトに出てくるようなサイコパス男がみじめなジョーカーを処刑する。ナイフで自分の顔にジョーカーメイクを施すサイコパス男。とはいえここで…
「じゃあアーサーって誰だったんだよ!」と憤怒する客も出てくるかもしれない。「俺たちが2時間×2回見てきた主人公はバットマンと戦う悪役でもないただのみじめなピエロだったのかよ!」そう言ってツイッターにこの映画はクソ!見る価値無し!と書き込む人々の姿が目に浮かぶ。
第一の誤解と第二の誤解。
第二の誤解は、タイトルを読めば、あのバットマンに出てくるジョーカーの前日譚だと思うじゃないか、騙しやがって、という誤解だ。これは誤解というよりミスリードかもしれない。
「ジョーカー」という映画は「バットマンの悪役ジョーカーの前日譚」だというミスリード。
「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」というタイトルは、「バットマンの悪役ジョーカーは天才でも悪のカリスマでもない、みじめな知恵遅れの病人だ」という意味にとれるが、これもミスリード。
監督はジョーカーの前日譚を書きたいのではなく、ジョーカーを支持するゴッサムシティの住民たちの民意がなぜ、いかに形成されていったのか、ジョーカーというシンボルが如何に作られたのか、という過程を描こうとしたのだ。ジョーカーという個人の前日譚ではなく、ジョーカーというシンボルの前日譚。
「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」というタイトルも、ジョーカー1個人が狂っている、というより、ジョーカーというシンボルを信奉し合う住民たちが相互に狂いあっている病的な状態、を言い表しているのではないか?
僕としてはそう考えて、ガッテンしたわけだけど。
とはいえこう理解するまでに、2回くらい誤解ポイントというか、席を立ってしまう場面があったわけで。
誤解されて酷評を受けても仕方ないよね、とは思う。
「エンターテイメントの語源には保つという意味があるとやら。
だからね、我慢した人にしかクライマックスは見れないんです。」
と何回か前にフリクリ漫画版から引用したと思うけど。
映画批評家たちは自分を保つ力、辛抱する力が足りなかったのかな。
我慢できなかったからクライマックスを観る前に、駄作と判断しちゃったんだね。まあ仕方ないと思う。じっくり考察する暇とか無いだろうし。
それに普通の観客に要求する我慢力のレベルが高すぎる、とも言えるわけで。みんな忙しいし、頭空っぽにして楽しめる映画が最高でしょ。
この映画を、「バカな大衆には分からないだろうけどオレには理解できた、最高の映画だ」とか評したら、それこそ批評家の仕事失うだろうし。
ファンの好き嫌いに忖度して点数を付けないとね。
それは分かる、でも…。
その映画批評家たちの公開初期の酷評のせいで映画が伸びず、「興行失敗」
したと記事に書かれることでますます不調になり、「なぜこの映画は失敗したのだろう、その理由はうんぬんかんぬん」と記事にされることで更に客が減る、酷評される…という悪循環に入ったんだよねきっと。
この結果は誰のせいなんだろう。アーサーがジョーカーであろうとして自らを死刑に追い込んでいったように、この映画も映画批評家や大衆の評価に唾を吐くような態度を貫いて自爆したようにも見えるというか。
「さすが俺達のトッド・フィリップス!ちゃんとした映画を作った結果自爆しても平然としてやがる!そこにシビれる!あこがれるゥ!」
みたいなね。トッド監督はディオなのかな?
「映画も見た目が9割」というか、第一印象が大事なのかも。
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とはいえこの映画は、そんなに高尚で難解でアート的な映画化というとそんなことはないと思う。そういう第一印象で敬遠されているのでは?
展開はスローペースだし、セリフも多くないし、問題点が明確に二分されていて混乱を生みにくいし。ただアーサーと観客に突きつけられた課題が重いだけで。その課題をロマンティックに解決する展開は皆無だし。
ロマンが一切否定されているというのは、そういうのを楽しみにしている人には辛いかもしれないね。セックスシーンもあるけど、ロマンティックな愛というかは、ロマンティックな妄想に浸っている二人の交尾をはたから見るとこんなにぶざまなんだ、というのを見せつけてくる感じというか…。
露悪的というか。夢を壊してくるね。映画館にはカップルも結構いたけど、どんな気持ちで観てたんだろ。この人たちもこのあとぶざまに致すのかな?
カップル向きではない映画だけど、素人の僕でも楽しめたわけだし、高尚な哲学映画とかアート映画というわけではないと思う。むしろ僕みたいにバットマンの基礎知識ゼロの人の方が余計な葛藤が無い分楽しめるのかも。そういう意味でもタイトルと見た目で誤解されている映画かも。
バットマンオタとかじゃなく普通の人がもっと観てもいいと思うけど。
酷評とバットマン映画という誤解が客足を遠のけているのかな…。
でもその誤解は自業自得のような気も…(以後くり返し)
あと、「ジョーカー現象」と「トランプ現象」が似ているという点も、映画が敬遠されている理由ではないか、と思ったり。
「ゴッサムシティはいかにして、ジョーカーというシンボルを支持する街になったのか」というのがジョーカー1・2のテーマだ。と僕は思っている。
ここには、
「ラストベルトはいかにして、トランプを支持する地域になったのか」
という暗喩も込められている、と多くの人は感じるだろう。
だからといってそれは、反トランプ派を支持する映画だ、ということにはならないはずだ。ジョーカーというシンボルが生まれざるを得なかった流れを描く、ということは、トランプ支持者を突き放しているというよりもその苦しみを理解しようとしている、と僕には感じられる。
とはいえ、ジョーカーとトランプを結び付けるイメージは、政治に利用されるリスクがあるだろう。
第一作「ジョーカー」は、トランプ大統領に気に入られ、ホワイトハウスで上映会を実施した、というニュースがある。「トランプがこの映画を気に入ったのは、デ・ニーロがジョーカーに殺されるから」だという声を載せるこのニュースの記者はたぶん、反トランプなのだろう。
ドナルド・トランプ米大統領、『ジョーカー』を気に入る ─ ホワイトハウスで上映会を実施 | THE RIVER
岡田光世「トランプのアメリカ」で暮らす人たち 大統領はなぜ、映画「ジョーカー」を気に入ったのか: J-CAST ニュース【全文表示】
いや、この映画はむしろトランプを批判した映画だ、といってトランプ派と反トランプ派で映画の取り合いが起こっている。あなたはママの子なの、パパの子なの?と子供を取り合う親のようだ。とはいえ、2作目の本作はジョーカーことアーサーが惨敗する映画だ。本当は違うのだけど。そういう解釈が酷評を通じて広まり、トランプ派は激怒して映画館に行かない。
映画を観ず、映画の酷評だけ見る人々は、映画の不買による大ゴケに加担することで溜飲を下げる。アメリカ大統領選でトランプは圧勝したという。国民の半分以上に政治的な不買運動をかけられた結果、映画は失敗したのだ、ということもできるのではないか?それは言い過ぎか。とはいえ。
第一作はトランプ氏を礼賛した映画ではないし、第2作はトランプ氏やトランプ派を狂人、病人扱いした映画ではない。
とはいえ、じっくり長く付き合わないと誤解されてしまうのがアーサーのようなタイプであり、この映画のようなタイプなのだろう。
「この判断は誤解かもしれないので留保してもう少し付き合ってみよう」
という態度が何に対しても求められる。とは思うけど、そんな説教みたいなこといってもしょうがないよねえ…。どうすればいいのか…。
とりあえず個人的には、「決断力のある人」というか、「決断を留保する辛抱の無い人」はあまり信用しないほうがいいな、とは思ったけど。
酷評だったけどジョーカー2、見たらいい映画だったし。
:
というわけで2回にわたって、時間無制限で書いてきたジョーカー2の批評はここで終わりにしようと思う。
まだまだ書くことはあるけど、別の映画の時にしよう。
来週は電気の話に戻ろうかな?
そういえばまだネタバレゾーンだった。
ネタバレゾーン終了
朝に書いた文章を清書するだけの積りが、ほぼフルスクラッチになってしまった…眠い…。
では…また来週♪