後釜
後釜とは悪い意味で使われる場面が多いのかな。
「後釜」について調べてみると
「かまどの火が消えないうちに、次の釜をまた火にかけるということ」
が語源というか、ここから言葉の言い換えられていかれたらしい・・・・
ちょっとせこいってこと?
前使ってた人の火をそのまま使うってことでしょ?
まあ、よくもとれて
利口に、効率よく仕事をしているってこととも言えるのかな。
事故を起こして
自分が出来なくなったことを
後釜がしてくれている。
それを自分はかつて自分も活用していた
SNSで確認している。
助かっている面もあれば
自分勝手な感情であるが、
自分がしていたように
上手くやってくれないかなとも思っていしまう。
自分の人脈で広げたコミュニティが
少しづつその後釜のコミュニケーションスキルで
変化していくのを観察している中で、
「上手くやっているな。」とか、
「もう少し気づかいを。」とか、
勝手な感情が生まれる。
自分はもうあの場所には戻らないと決め、
新しい場所で自分を生かしていくと決めたが、
自分の元居たコミュニティが
SNSのおかげで
近くにありすぎて
後釜のことが気になってしょうがない。
この社会は
改めて人のつながりが容易になったのだと感じる。
SNSのすごさというか
情報化社会の産物というか
人と人が
離れて、くっついて
くっついて、離れることが
本当にひと昔に比べると、
簡単になったんだろうなと思う。
世界がよりせまくなっているんだろうな。
外の世界を見ることは、
中々できなくて、
救急車で運ばれるような事故を起こさなければ、
自分の生きている狭い世界を認識できなかった。
狭いから悪いというわけではない。
広いからいいというわけではない。
自分の生きている世界の広さを感じつつ、
自分を成長させればいい。
自分の世界が狭くなりつつあることを感じているが、
この新しい世界のおかげで自動車保険に関して少し詳しくなった。
あの広い世界の中に自動車保険は存在していたが、
ここまで自分の中に自動車保険が
浸透することはなかったであろう。
この狭くなりつつある世界で生きながら、
広げたければ広げるし、
逆にもっと狭くしても
自分は勝手に成長できると思う。
今まで生きてきた人生が
スポンジのように吸収力を持つ
人間を作ってくれたんだなということを認識しながら
後釜に感謝しながら
あの頃よりも狭くなった世界の中を生き抜いていく