時代に伴う「かけがえのない」から「代替可能」への変遷。逆行のためのヒントを見つけに。
フィジーについてのある論文(古いけども)を読んでいた。
そこには、今の日本にも共通するようで、少し期待を覆すような内容があった。
https://ir.ide.go.jp/record/43258/files/KSS051100_009.pdf
フィジーにおける都市と田舎の違い。
田舎では伝統的な相互扶助システムが受け継がれている。
一方都市では、出自村落との時間的、空間的隔たりがあり、実質的な相互扶助関係が廃れてきている。
それゆえ都市に住む人々は非常に不安定な存在となっている、と。
フィジーに行きたいと私が初めて思った時、この相互扶助を当たり前とする文化にものすごく惹かれた。
というのも、今住んでいるシェアハウスで大切にしていることとその文化がすごく似ていたから。お金による関係性では作り出せない、信頼から成り立つ関係性のもとで、物事が進む、そんな関係性。
そうした関係性はもちろん面倒くさい。
深く入り込まれたくない部分もあるし、関係を維持するために、深く嫌々入り込まないといけないこともある。
だけども、安心感がある。
困った時は頼りたいと思えるそんな人たちががいる。
1人だと大変なことも、何人かでやればすぐ終わったり、楽しかったりする。
いつのまにか、いいところも悪いところもまるっとまとめて相手のことを好きだと思える。
相手のことが好きだからこそ、厳しくもなるし、大切にしたいと思う。
昔の田舎での関係性もそうだったのではないだろうか、と思う。
文化としてそうした考え方が引き継がれる背景を知りたかった。だからフィジーに実際行こうと思った。
でもこの論文を読んで、「やっぱりそうだよな。」と思った。
時代と共に都市と田舎の格差が広がり、都市では信頼から成り立つ関係がつくられなくなり、資本主義社会が広がる。
日本だけじゃない。
かけがえのない、家族や親戚、地域の人、知己(自分の心をよく知ってくれる人)との関係がまるで代替可能であるかのように、都市の人々はその時々で都合の良い関係性を築いていく。
本当の状況がどうだかはわからないけど、言ってしまえばそれが普通。
便利だから。
フィジー現地では、都市と田舎を見渡して、そこで話をして、共に食事をして、比べてみる。
日本よりはその差が顕著なはずだから。
私は今ある、シェアハウスでのかけがえのない関係性がずっと続いてほしいと思っている。そんな関係性の輪を、将来つくる場所ではもっと広げていきたいとも思う。
まるで時代を逆行するかのように。
そのヒントを見つけに行ってくる!
p.s.
数年前「〜〜35億。」のようなお笑いが流行っていた。
代替可能ってことの象徴じゃないか!笑
寂しいネタだ。