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京住日誌 6日目

 【What happened today】
 さらに起床時間が早くなる。時計を見るとまだ3時50分。今起きると流石にリズムが狂うと思いそのまま目を瞑っていた。寝付きは良い方だけど一旦目醒めてしまうとなかなか眠れない。それでも5時までは我慢して、布団をはねのけた。
 まずはシャワーを浴び、コーヒーを入れる。京都に来てから小川珈琲の有機ブレンドを愛飲している。6時のデジタル新聞更新時間まで少しあったので昨夜から読み始めた司馬遼太郎「花神」の続き。面白い。高校時代の友人に熱狂的な司馬遼太郎ファンがいて(岡崎君、元気?)仕切りに薦めるので、何冊か読んでみたがピンとこなかった。しかしこの「花神」は面白い上に歴史の認識の仕方は、勉強になりそうだ。僕の京都滞在の目的が「京都原理主義者のDNAを応仁の乱を切り口にして体感する」だ。「お前何様だよ」と言われそうだが司馬遼太郎のようなアプローチもアリだなと思い始めている。
 6時になったのでデジタル新聞3誌を斜め読み。ひと通り読み終わった後、朝食作り。と言っても電子レンジ用の釜でご飯を炊き、味噌汁(今日は茄子ね)を作って卵た納豆の簡単なものだ。

今日の味噌汁は上手にできた。

 食べ終わったら洗い物をして、簡単に部屋の片付けをして出発。今日はホテルから徒歩圏内の下京図書館へ。

右京中央図書館がやっぱり好き

 無料で利用させてもらっているのに文句を言うのはどうかと思うけど、右京中央図書館に比べると小さく、レファレンス席は少なく、何より電源がないのが痛い。お目当ての資料も所蔵していない。ということで一旦ホテルに戻り部屋でメモを取りながらお勉強のフリをする。

 いきなり何の告白だよ言われそうだが、僕は平衡感覚に乏しい。だから?運動神経がお世辞にもよいとは言えない。そして致命的なのは立体感覚に乏しいことだ。何せ「京都を空間的に体感すること」を掲げているのだから立体感覚の欠如は洒落にならんと思っている。地図は読めないし、学生時代は立体図形が苦手だった。
 こう書いていて思い出したことがある。僕の通っていた高校では文系であっても課外授業で数Ⅲを選択できた。何を血迷ったか、僕は数Ⅲを選択しした。担当のテラさん(寺島先生)が好きだったというのもある。僕にとっての数Ⅲはそれまでの数学とは全く趣きが異なったし、難しかったけれど何とかついていった。ただ授業の中でテラさんが「平行は本当は平行じゃないんだよなぁ」と呟いたのを聞いて訳がわからなくなる。隣に座っていた典型的な文系人間(と僕が勝手に思っていた)の岡崎君に
「平行は平行じゃないってどういうこと?もう、訳がわからん」と訊ねると、岡崎君は
「薄々そうじゃないかと思っていた。中学からの疑問が解決した」と晴れやかな顔で曰う。結局岡崎くんは理学部に進んだ。仲間だと思っていたのに。
 話が逸れた。今では文明の利器を使えば方向音痴でも目的地には着いてしまう。ただし当然ながら応仁の乱の時代にはGoogle map はなかったし、ついこないまでもなかった。第一Google mapに頼ると画面ばかり見て廻りの風景に目がいかなくなる。そこで、今後は基本Google mapは使わないことにした。事前に手持ちの地図で調べ、手帳で簡略図を書くようにし、昨日から実行している。どれだけ効果があるかは未知だけど。

ちたない字でごめんあそばせ

 改めて考えてみると、応仁の乱が起こった当時も僕のような方向音痴の輩はいただろう。しかしそれでは戰にならない。何日か前のnoteに書いたけれど、応仁の乱は応仁元年(1467年)1月に戦端が開かれた。当然ながら何の前触れもなく、戦端が開かれた訳ではなく、様々な準備がなされている。まずは戦いまで、数ヶ月間の畠山義就の動きを確認してみる。
文生元年(1466年)   9月上旬、蟄居先の熊野北山を出発
     同年      10月 河内国入城
       同年      11月15日上洛
応仁元年(1467年)  1月18日御霊合戦(翌日まで)

 こうやって合戦まで時系列に並べるとやや唐突感がある。しかし畠山家の首領権を巡る戦いだから両者とも周到に準備したはずだ。いずれ戦いが避けられないのは両者とも十分認識していただろう。
 まず9月に蟄居先の熊野を出発できたのは足利義政の許しが出たからだ。もっともその3年前に蟄居を命じたのも義政なのだが。そしてすんなり河内国へ軍を進められたのは、もともと河内国は畠山義就の支配下にあったからだと思われる。そして蟄居を命じられた3年間も一定の影響力を及ぼしていただろう。こう書くと強権的なイメージだけれど、力だけでは人はついてこない。これは歴史小説からの受け売りなのだが畠山義就は河内国の国人(国衆)を手なづけるため彼らに徴税権を与え、逆に彼らの税負担を減らしたことが考えられる。出発から上洛まで短い期間で実現できたのも彼らの協力あってこそだ。そしてその強力とは多岐に渡っていただろうと想像できる。 
 例えば地図。元々の支配地で訳知った場所であっても地図なしに進軍したとは考えられない。古い地図は役に立たない。なぜなら自然災害で道が塞がっているかもしれないからだ。もちろん道を塞ぐのは自然災害だけではない。敵方畠山政長の一味が行手を阻んでいる可能性もあるし、河内国には政長の影響力の強い地域もあっただろう。地図にはそういった最新情報を加味されたものだったはずだ。上洛まで無用な戦いを避けるため、政長一味が支配している地域を迂回したかもしれない。いや逆にあえてそのルートを通り、彼らを義就派に寝返えらせたこともあっただろう。畠山義就軍が上洛した時の様子は「応仁記(応仁の乱を描いた軍記物語)」次のようにある。

義就は多年の蟄居が一時に開けて、十一月二十五に上洛した。路の行列は装いをこらし、馬前の矢負いははでやかさを極め、一騎当千の士卒が五千余騎余騎で、
応仁記巻第一

 軍記物語だから「五千余騎」という数はひとまず置くとしても、一定の規模の大軍であったことは間違いないだろう。武具や応仁記の記述にはないが兵士の食糧など周到に準備されていたに違いない。そしてこの大軍を駐在させる場所も必要だった。それを用意したのが山名宗全だった。山名宗全は侍所頭人(今風に言えば防衛大臣?)で元々畠山義就とは対立していたが、宗全の思惑もあって義就を味方に引き入れたのだ。今回義就軍を京に手引きし、軍の駐屯地を用意したのも宗全だ。
 一方、畠山政長もじっと手をこまねいていた訳ではない。義就の動きは家臣から逐一報告を受けていた。為政者である足利義政に様々な働きかけ、要するに政治工作をするが結局うまくいかない。戦闘は避けらない状況になったとき、自分の邸宅に火を放ち、軍を率いて上京、御霊神社に陣を構えた。もちろんその情報は義就にもすぐさまもたらされる。報を受けた義就は地図を広げ御霊神社へのルートを思案したことだろう。こんな時は例えGoogleマップがあっても使えない。アップデートが最新でないからだ。

 5月のゴールデンウィーク最終日からオッサン5名で四国に行った。しまなみ街道を通過して目指すは徳島の秘湯。平家の落武者伝説のある場所だ。レンタカー備え付けのナビとGoogleマップを見ながら山道を車で走る。すると突然通行止めの看板。落石事故があり工事をしている。Googleマップには通行止め情報はアップされていなかったのだ。

Googleマップ使えねぇ!

仕方なくUターン。我々は迂回ルートを通って目的地に到着でき、事なきを得たが(と言っても温泉に入って大酒飲みながらバカ騒ぎするだけですけど)義就軍5千騎は簡単にはUターンできない。義就が「Googleマップ、使えねぇなぁ!」と言いながら買ったばかりのiPhone13を馬上から投げ落とすのを止めることは誰にもできないだろう。
という訳で(どういう訳だ?)僕も少なくとも京都では今日からGoogleマップ使うのは止めにします。

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