黄えんどう豆
コンビニでも代替食品化が進むようだ。
地球に負荷をかけている食肉を減らしたり
食料危機に対する備えだという。
きょうは、
あたたかい国での鯨漁をみて食のあり方を
あらためて考え直すことになった。
もう日本での鯨漁は制限されてしまって
食膳にのることはないが、小学生の頃までは
給食にも使われていた。家庭でも鯨の唐揚げとかは美味しくいただいていた。北海道では
鮭もそうだが、魚一本を全て食べ尽くすことが前提にある。それは自然への感謝とともに
命をもらっていることへの畏敬の念だ。
親子代々で伝えられてきたことでもあるから
意味は分からなくても普通に何か大切なことだろうと思っていた。鮭の頭ちかくの一鰭
(いちびれ)は家長が食べる部分と決まっていた。もう家長を重んじる時代では無くなったから、、時代錯誤な話かもしれない。
しかし
鯨を命がけで捕って暮らしている人たちの
姿をみて共通していることに気づく。
鯨を解体して分ける部位は、1番仕事をした人から順番に渡されていた。
そして平等に均等に仕事に応じてちゃんと
分けられていた。尾びれ部分でも文句を言う人はいないらしい。最後に長老が現れて
無事に終わったことに感謝するという、真に
シンプルな人との関わり方を体現していた。
鯨を最初に仕留めた人の家族は8人で
もらえた鯨で3ヶ月暮らせるという。暮らしと密着しているからこそ、食の有り難さが分かるのだとおもう。そんな覚悟も持たないで生きてる側だから…大豆よりは成分が良いとかヴィーガンよりであるとかで惑わされるんだろうな…そこにはまた人間のエゴが優先してるとも考えられるから、
思い画くまほろばは遠くなって行くばかり。