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「お笑いで笑えない」を考える
この記事を書こうと思ったきっかけはこのポストだった。
昨日女の子にM1見ましたか⁉️って聞いたら「私最低なんですけど、お笑いで笑ったこと一回もなくてこの人たち笑かそうとしとんや、って思うと超冷めるんですよね」って言われて新感覚すぎてビビった。
— 毎度!お楽しみセルフ顔射ちゃん (@fujun_cahn) December 24, 2024
私も同じような経験をしたことがあって、以前縁があってお笑い関連の仕事に一ヶ月ほど関わらせていただいた時に、部署の先輩に「芸人誰が好きですか?」と聞いたら、すごく申し訳なさそうに「…私、お笑いで笑えたことが人生で一度もなくて…」と言われ、マジで人と話す時はあらゆる可能性を念頭に置いて話さなければならないと強く自覚した瞬間だった。
というか、お笑いで笑えたことが無いのにお笑い関連の部署の担当になってしまった先輩がひどく気の毒に思えた。(実際、結構辛いと話してくれた)
この先輩だけではなくて、私は元々関東出身で、関東ではお笑いに興味がないというのは当たり前だったが、関西に来てからも全くお笑いを見ないという人に何人か遭遇したことがある。
私は子供の頃からお笑いが好きで、好みではないネタで笑えないということはあっても、全く笑えたことが無いというのが自分の感覚では理解できないことだった。
そこで、今回このポストが話題になった時に、このポストに同調している方々の意見や、その方々の普段のポストを拝見させていただいて、お笑いで笑える人と、笑えない人では何が違うのかということを考えてみた。
最初に強く断っておきたいのは、お笑いで笑えない人を貶める意図は全く無く、かつお笑いで笑えるようになってほしいとも全く思っていないことだ。あくまで、自分とお笑いで笑えない人のギャップを言語化したいというだけの記事になることを注意しておきたい。
また、ちゃんとした統計などを取った記事ではなく、SNSを無理のない範囲で観測した結果に基づく体感的な記事なので、暖かい目でご覧ください。
お笑いで笑えない理由
まず、お笑いで笑えない人が、なぜ笑えないのかという理由を示してくれていたものを列挙してみる。また、精神的な病気や障がい等で笑うことができない、理解するのが難しいといった事例はここでは含めず、「最近のお笑いでは笑えない/〇〇では笑えない」といった事例もここでは省いて話を進めることとする。
作られた笑いで笑えない
芸人が「笑わせようとしている」のを見て冷めてしまう
お笑いの見方が分からない/どこで笑ったらいいのか分からない
一つ一つ見ていく。
・作られた笑いで笑えない
これはよく見かけた意見だった。
彼/彼女らは、会話の中で発生する笑い(言い間違いなど)やハプニングでは笑えるが、漫才やコントなどは台本がありきで練習をして本番に臨むものであるため、そういう「作ってきました!」感で冷めてしまう、というものだ。
なので、全く笑うことができないといった訳ではなく、この記事の冒頭で話した部署の先輩は、有吉やマツコ・デラックスの毒舌では笑うことが出来ると言っていた。
個人的にリサーチした範囲では、友人のお父さんもお笑い番組で笑っているところを見たことがないというレベルでお笑いで笑えない人らしいのだが、次の動画を見た時には爆笑していたらしい。
(確かに面白い)
なるほど確かに、こういった笑いを好む人は偶発的な事例を求めていると考えられるので、漫才やコントといったお笑いはそれに当てはまらないのかもしれない。
ただここで疑問が生じるのは「作られたものを好まない」のは、お笑いに限られるのだろうか?という点である。それを言ってしまうと、テレビや映画など、ほとんどのエンタメは「作られたもの」であり、それら全てで冷めてしまって、笑ったり泣いたりということが出来ないのだろうか、という疑問が生じてしまう。
この疑問の解決は、この項に包含される部分もあるが、次の要素であるように感じた。
・芸人が「笑わせようとしている」のを見て冷めてしまう
これも最初のツイート然り、多かった意見だ。
前項と似たような話になるが、芸人は見ている人に笑って欲しいと思ってネタを作り、それをテレビ番組などで披露することになるが、お笑いにあまり関心がない人からするとその芸人を知らないことも多いので、「そもそもお前は誰なんだ?」という疑問が生じてしまうかもしれない。
これは恐らく一種の防衛本能のようなもので、「知らない他人に感情をコントロールされたくない」という気持ちが笑いにストッパーをかけてしまっている可能性があるように思う。
映画やドラマと違って漫才やコントが特異的な理由は、その短さである。
映画やドラマは作り物ではあるけれど、それをリアルに見せるために、登場人物の日常生活や関わり合いの描写にかなり時間が割かれる。映画であれば、感動的なシーンは最後の方に設けられ、登場人物のキャラクターや関係性は十分に理解した上で重要なシーンに臨むことができる。
その点、漫才やコントは特段人物の説明がなされることのないまま、いきなり芸が始まり、4-6分ほどで終わる。
敢えて「知らない人がいきなり大声で話し始め、キレたり、なりきったり、暴れたりしている」という表現をするならば、確かにこれのどこで笑うんだ?となってしまうかもしれない。
しかし、ここでも疑問が生じる。
それは、お笑いで笑える人であっても、初めて見る芸人は存在するということである。
大抵の人はテレビでお笑いを見る機会が多いので、まだテレビ露出の少ない芸人はM-1などで初めて見ることも多いし、劇場に頻繁に通うお笑い通の人であっても、若手芸人のネタを初めて見ることはある。それでも、その人のツボにハマればちゃんと笑うことはできるのだ。
この項でも、お笑いで笑える人と笑えない人の違いを説明しきることは出来ない。
よって、この議論の結末は次の項に委ねられることになった。
・お笑いの見方が分からない/どこで笑ったら良いのかわからない
これが一番見かけた意見になる。
これを考え始めると議題の「お笑いで笑えない理由」に戻ってしまうのだが、この意見はどの程度の経験を以てしてこのように思うようになったか、で分けられることに気づいた。
それは、
・お笑いをほぼ見たことがない
・お笑いを見たことはあるが、笑えたことがない
の2つである。
まず、前者について考える。
特に10-20代の若い世代において、お笑いをほぼ見たことがない人というのは確かに存在する。テレビ離れなどのデータについては後述したいと思う。
筆者は20代前半なのだが、この前同期で飲み会をしたときに、お笑い好きの同期と盛り上がって周囲を置いてけぼりにしてしまったため、反省して皆が分かるような芸人の話題をと思い、爆笑問題の話をしたら、私達以外の全員が爆笑問題を知らなかった。衝撃だった。
これが何を意味するかというと、毎週日曜放送のサンデージャポンはともかく、夏休みや年末年始にこれでもかとやっているお笑い番組に爆笑問題は特需で出演しているのに、これまでの二十数年の人生で一度もそれに引っかかったことがないということである。
サンプル数が少なくて申し訳ないが、少なくとも筆者の周囲では「お笑いをほぼ見たことがない」という人は何人も存在する。関西であってもだ。
前置きが長くなってしまったが、そのレベルでお笑いをほぼ見たことが無い人にとって、「お笑いの見方が分からない」というのは当然の話である。
お笑いをよく見る人間は、ある程度「ルール」を知った状態でお笑いを見ている。
漫才であれば、まずボケとツッコミがいるのが基本形で、登場したらまず「つかみ」をしたり、しなかったりする。そこから「しゃべくり漫才」か「漫才コント」か、大まかに見ればどちらかの形でネタが始まる。そしてネタを見ながら
ボケたぞ、どうツッコむ?
この流れでどうボケてくる?
さっきのワードは後で回収される?
などなど、これらを物凄く考えて見ているわけではないが、ある程度このような「型」が分かった上で漫才を見て、ボケに対して思っていたことにバシッとツッコミが決まったら笑ったり、予想外のボケが来たら笑ったり、を繰り返している。これはある意味クイズのようなもので、観客の頭の中にうっすらとある回答に対して、芸人が正解を出したり、思いっきり不正解を出したりしていることになる。
しかし、お笑いに慣れていない人にとっては、そのクイズの出題が分からない。なにがボケで、なにがツッコミなのかというところから分からない状態で漫才を見ることは恐らく難しい。きっと、
「知らない人がいきなり大声で話し始め、キレたり、なりきったり、暴れたりしている」
という状態が5分程度で過ぎ去っていくのだと考えられる。
これを考えると、現在お笑いで笑える人間というのは、幼少期からお笑いに触れることができる環境にいたことが多いのだと考えられる。もちろん、大人になってからお笑いを見始めて、笑うようになった人もこれに該当する。
お笑いで笑えるようになるのには、ある程度お笑いを見て、ルールを理解する必要があるのかもしれない。
そして、後者の「お笑いを見たことはあるが、笑えたことがない」というケースについても考えてみたい。このケースでは、お笑いを数回程度しか見たことが無く、その全てで笑えたことがないといったような場合は前者に含めることとする。
このケースに関しては、お笑いに対してむしろ嫌悪感を抱いている人も多い。それは、お笑いを見る環境にあったが、周囲は笑っているのに自分は笑えたことがなく、同調圧力や疎外感を感じていた、といった場合だ。
自分が全く面白いと思えないお笑いを、周囲の人が好むといった理由で見ることを強制される環境は地獄だし、特に幼少期に保護者によってそのような状況になっていた場合に、拒否することは難しく、お笑いに対してトラウマのようなものを抱く原因にもなるだろう。
これはそもそもお笑いに向いていない方だったという可能性も考えられるが、この記事を見て違う可能性も考えるようになった。
勝手に引用させていただいているが、この記事はお笑いに馴染みが無く、お笑い番組をずっと見ていると不快感を覚えるといったような方が、初めてM-1を視聴した、といった内容の記事である。
この記事の中では、M-1のシステムや芸人の真剣さに驚いたといったような内容に続き、ママタルトの大鶴肥満の体当たりなボケに思わず大爆笑した、といった内容が書かれていた。(なんだか、筆者も嬉しい気分になった)
そして、ここで勝手に考えることにもなった。
大鶴肥満がM-1のネタでしていたような体当たりな動きは、バラエティ番組ではよく見かけることがあったが、漫才に組み込まれたのはかなり最近の話で、このテイストを亜流から主流に変えたのは、2020年M-1王者のマヂカルラブリーであったと思う。長い年月をかけて和牛が漫才コントを正統派として浸透させ、マヂカルラブリーが大きな動きを伴う漫才コントを世に認めさせた。
かつての漫才は、しゃべくり漫才こそが正義であった。関西で発展した上方漫才が進化に進化を遂げ、様々な漫才が多様性として認められ出したのは本当にここ数年の話である。なので、かつてのしゃべくり漫才が好みではなく、その当時お笑いをあまり面白いと思えなかったという人は多数存在する可能性がある。
もちろん、漫才には好みがある。オズワルドのようなしっとりとしたしゃべくり漫才が好みの人もいれば、トム・ブラウンでしか笑えないといった玄人も存在する。何が好みの漫才であるかは、自分が好みの漫才に出会うことでしか知る方法がなく、それは自分から出会いに行くか、たまたまテレビ等で出会うか、の2択になるだろう。ずっと漫才の話をしてしまっているが、コントやピン芸でも同じことだと考える。
お笑いが好きな人は、お笑いで笑った経験があり、この人たちは今度はどのようなネタで自分を笑わせてくれるんだろうという期待感を持ってお笑いを見ている。要するに、芸人に対して「この人は笑わせてくれるかもしれない」といった信頼があるのだ。
このように考えると、循環論法のような話になってしまうが、お笑いで笑うには、お笑いで思わず爆笑したことがあるという「経験」が必要なのかもしれない。
その経験がない状態では、「お笑いで笑ったことが無い」という前提の下でお笑いを見ることになり、笑う精神状態にないまま常に冷めた目でお笑いを見ることになる可能性がある。
結局、お笑いで笑うにはどうすればいいのか?
まとめると、お笑いで笑える人と笑えない人では、
お笑いのルールが分かっている
それ以前に、お笑いで思わず爆笑した経験がある
といった違いが少なくとも存在すると考えられる。特に後者は重要であると考えられ、お笑いで笑える人は、必ず一回はこの経験をしているだろう。
「笑う」というのは一つの感情であるため、見る側の精神状態も重要で、自分が疲れていたり、忙しかったりすると、あまり笑う気分になれず、いまいちネタに入り込めない時もある。
そして悲しいことだが、ネタ以外にも芸人の見た目が気に入らないとか、キャラクターが好みではないといった理由が笑いのストッパーになることもある。
ネタの好みも本当に人それぞれで、下ネタが苦手な人であれば下品なネタで不快感を覚えてしまうし、繊細な人であれば人を馬鹿にするようなネタはいじめのように感じてしまって笑うのが難しい場合もあるだろう。
反対に、かなり時事的な知識を必要とするネタを好む人もいるし、ただの雑談のようなネタを好む人もいる。
かなり強引な結論になってしまうが、「笑う」という感情はかなり複合的な要素が絡み合って引き起こされるもので、どのような時にこれが生じるかは本当に人それぞれである。
なので、お笑いを見る時はあまり穿った見方をせずに、出来るだけ素直にまっさらな気持ちで一度ネタを見てみることも大事なのかもしれない。もちろん、無理に見る必要は全くないのだが、ただなんとなく見た芸人のネタで笑えてしまうことはあって、お笑いが好きな人の最初の入口も案外そんなものだったりする。
お笑いはテレビで見るものではなくなった
前項で、「お笑いで笑えるようになるにはとにかくお笑いを見てみること」というような偉そうな話をしてしまったが、近年はお笑い、特に漫才やコント、ピン芸の「ネタ」を見る機会はどんどん減ってきてしまっている。
そもそも劇場に通う人以外はお笑いのネタはかつてテレビで見るものであった。
しかし、もう若い世代ほどテレビを見なくなってきている。
総務省のデータを引用する。
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○年代別にみると、「インターネット利用」の平均利用時間が、平日は10代、50代及び60代で大幅に増加し、休日は10代で大幅 に増加。平日の50代では「テレビ(リアルタイム)視聴」を初めて超過。 ○「テレビ(リアルタイム)視聴」の平均利用時間が、休日の20代及び30代で大幅に減少。60代は平日で200分、休日で300分を 超過。
このように、テレビはもはや若者が見るものではなく、40代以降が中心となって視聴している。
その上、お笑いのネタを見る「ネタ番組」も急速に減少した。
かつては爆笑オンエアバトルや、エンタの神様、爆笑レッドカーペットなど、比較的長寿のネタ番組がゴールデン帯に放送されていたが、それらは全て放送終了となった。
いま、全国ネットで「ネタ番組」とされるものは以下の2番組である。
ネタパレ(フジテレビ系列、毎週土曜18:30-19:00放送)
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千鳥のクセスゴ!(フジテレビ系列、毎週日曜19:00-20:00放送)
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あとは「有吉の壁」も、ある意味即興コントのネタ見せ番組ではある。
視聴率を調べることはできなかったが、これら「ネタパレ」や「クセスゴ」が代表的なネタ番組と言えるほどにはなっていないだろう。
本当にゴールデン帯のバラエティ番組はグルメや音楽、クイズ番組で溢れかえってしまった。
若い世代はテレビを見ない代わりに、スマートフォンを利用するようになった。
芸人達はこの流れをいち早くキャッチし、YoutubeやTikTokといった動画配信プラットフォームに主戦場も移している芸人も多い。
では、いま若い世代に届きやすい「お笑い」とは何だろうか?
時代に合った「コント」漫才はどうなる?
YoutubeやTikTokで人気が出る動画は、テレビ番組とは明確に異なる。
・動画時間はテレビ番組より短い場合が多い
・特定の人物やグループが主に出演する
・動画の撮影場所は自宅などのプライベート空間であることが多い
・大物Youtuberや芸能人以外は低予算で動画を作成
・交友関係や普段の生活など、プライベートの延長線上にあるような内容の動画が多い
というように、テレビよりは個人フォーカスで、プライベートと仕事の垣根を感じさせないような、かなり「人間」を見るようなものが多い。
芸人のYoutube進出はコロナ禍で多く起こった。
芸人によってはYoutuberのような企画をやったり、食事風景といったプライベートなゆるい動画を投稿したりと様々であったが、「ネタ」を投稿しバズった芸人も一部存在しており、それはコントに多かったように感じている。
以下に例を一部載せてみる。
ジャルジャル
(990万回再生)
ジェラードン
(1160万回再生)
レインボー
(468万回再生)
コントがYoutubeにハマりやすかった理由として、コントは「日常の切り取り」であり、リアルな日常風景や人間関係を演じてそれを面白おかしくしたものが、「人間」を見たい層が集まっているプラットフォームと相性が良かったものと考えられる。
TikTokはYoutubeよりもさらに動画時間の短さが要求される場所であり、そこでも例えば土佐兄弟のようなショートコントがバズる機会もあった。
反対に、漫才はあまりこのようなプラットフォームにあった芸だとは言いづらい。実際に、事務所や芸人が投稿している漫才のネタ動画で、上記のコントネタ動画ほどバズっていた例はあまり見かけなかったように思う。
サンパチマイクを挟んでいきなり大声で話し始める情景は日常風景とは程遠いし、5分程度という時間はコスパを求める層からすると長く感じてしまう。
よって、テレビでも漫才を見かけなくなってしまった今、漫才が今の地位を保てている要因は、間違いなくM-1を始めとした賞レースにあると考えられる。
お笑いを見ない層であっても、M-1の存在は知っている人がほとんどであるし(特に関西)、M-1王者になることが、賞金をもらえるだけでなく、かなりの栄誉にあたることも理解されていることが多い。
そして、いまバラエティ番組で幅を利かせている層の芸人のほとんどが、かつてM-1やKOCなどでしのぎを削っていたレジェンド漫才師/コント師であることも漫才/コントの地位向上に一役買っている。
ここで不安が生じてしまうのは、M-1が終わった後、漫才はどうなるのか?ということである。
M-1が終わってしまえば、ますますテレビで漫才を見かけることも少なくなるだろうし、漫才師を目指す芸人も少なくなるだろう。そして、Youtubeなどのプラットフォームでも流行る形式の芸でないのならば、益々漫才は劇場で見るものになってしまう。これは、もはや「落語」と同じ立ち位置である。
劇場に通っている身としては、漫才が劇場でしか見れなくなってもそこに通い続けるだけなので、あまり状況は変わらないのだが、そもそもその時代に吉本を始めとする事務所は存続できているのか?という問題もある。
漫才をいまの立ち位置のまま楽しむためには、M-1の存続が不可欠なのかもしれない。
エンタメは多様化しており、お笑いで笑えない人は別の趣味を持っていることも多い。
その点で言えば私の周りにはk-popが好きな人が多いが、私は全くk-popにハマることができておらず、それこそ「『k-popにハマれない』を考える」という記事を書かれてもおかしくない。(ちょっと読みたい)
お笑いも趣味の一つに過ぎないということを自覚した上で自分は今後も楽しんでいきたいし、M-1の時期だからといってお笑いに興味のない人にそれを押し付けてしまうことにも気をつけなければならないと思う。
以上になります。長いのに読んでいただいてありがとうございました。
今日はこたけ正義感の弁論を見なければ。
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