ハウリング・オヴ・デーモン 1

『あらすじ』
 人間を喰らい、その嗜好を『伝染』させる『凶人』と呼ばれる凶悪犯罪者が現れた近未来。
 光照憂日は『凶人』と自覚した幼馴染みの美少女、愛月詩織に『獲物』と認定されながらも、高校生ながら、警視庁『特務処理』係に配属された特務処理官だった。
『凶人』の私的判断での射殺を許可されている特務処理官ため憂日は、それ故に、最も厳しい現場に派遣される。
 普通の高校生でもある彼は、ただの女性刑事、武藤摩耶と共に、新たな『凶人』を追跡する。
 ただ射殺するために。
 だが、事件の最中バディたる武藤刑事に、『凶人』の嗜好が伝染してしまい、憂日の銃口は彼女へと向かう。

『凶人』……食人嗜好を持つ凶悪な犯罪者。高いコミュニケーション能力で、食人欲求を他者に『伝染』させてしまう。

『特務処理官』……社会にとって危険な『凶人』を、個人的裁量で射殺できる警視庁の刑事。公務員法の改正により、未成年もいる。

『自覚者』……自らの意志で食人嗜好に目覚めた『凶人』。おしなべて知能と運動能力が高く、手強い。

『伝染者』……他の『凶人』の嗜好を受け入れてしまい、自らも『凶人』となった存在。『自覚者』よりは弱い。

『伝染』……精神共感、思考伝染、嗜好変異のプロセスを経て、普通の人間が『凶人』に変貌すること。昨今のコミュニケーションツールの性能と所持率の飛躍的向上により、ウィルスのパンデミックのように『凶人』は広がっていく。 

 プロローグ

「憂日のもも肉はステーキにするのがいいと思うんだ。だって陸上部の短距離走者でしょ?」

 窓から斜めに入るオレンジ色の夕日に照らされながら、世にも美しい悪魔が微笑んだ。
「私ね、憂日のこと愛している……うん……ずっとずっと」
 うっとりとした表情で、頬を染めながら愛月詩織(あいづき しおり)は言った。
「……だから、憂日を食べたいの……味わいたいの……大丈夫! ちゃんと血の一滴も無駄にしないから」
 詩織が浮かべた笑顔は、はっとする程の艶やかさだった。

 だが光照憂日(こうしょう ゆうひ)はそれが克明には見えなかった。
 熱い液体が目に溜まり、世界はぼやけ、歪んでいる。
「肩の肉は煮込み料理にするし、肋骨回りは焼肉、かな? 骨はことこと煮てシチューに使うし、あとは内臓も大事に頂くよ……心臓とかレバーとか、私とっても楽しみ。憂日はきっとおいしいんだろうな」
 憂日はがたがたと震えながらその場に座り込んでいる。どんなに腰に力を入れても、恐怖により痺れた下肢は言うことを聞かず、身動きがとれなかった。
 彼は手に持ったぺらぺらの果物ナイフを持ち上げ、後三歩の距離まで迫った詩織に向けた……昨日までは誰よりも仲が良かった幼馴染みの少女だ。
 詩織はこれから料理をする用意を万端に整えていて、星空色の長髪を背中でくくり、中学の制服の上からエプロンを着けていた。彼女が家庭科の授業で作った会心作のエプロンだ。

 何でもない風にすっと一歩進み、テーブルの上のピーラーを手にする。

「あ、皮はどうしょうかな? 憂日をあまらせたくないよ……乾しておやつにしようかな……ねえ! 考えてみてよ! そうしたら私、憂日の皮をいつでも食べられるんだよ!」
「くっ」目眩に耐えながら、腰から崩れている憂日が少しだけ背後に逃げる。
 涙の中で霞む詩織、変わり果ててしまった彼女との思い出が、電流のように脳裏に閃いた。 幼い頃は一緒に街を駆け回り、夏休みの宿題を頭をくっつけながら終わらせ、教室では微笑み合い、つい先日初めて吐息を絡ませた。五歳で出会ってから九年間、憂日の傍らには常に詩織がいた。いてくれた。 
 憂日にとって詩織は、この美しい少女は、あまりにも身近で、気心の知れた存在だった……その筈だった。

 彼女が見知らぬ悪魔になったのは一ヶ月前からだ。兆候は、摂食障害として現れた。

 詩織は突然、今まで大好きだったモンサンクレールのケーキも含め、全ての食品が喉を通らなくなった。
 彼女の家族は心配し、やはりずっと付き合って来た憂日の両親も心を痛めた。
 全員、一ヶ月後、突如『自覚』した詩織に丁寧に料理されて、食べられた。
 憂日の四つ下の弟、昼太も含めてみんな、手際よくジビエとして処理された。
 警察、司法の力は不意に食人衝動に目覚めた詩織に、無力だった。
 今は外で血まみれの肉の塊として停止している。
「そうだっ!」
 詩織の顔が輝く。
「私の家に本格的なソーセージメーカーがあるの! 憂日の腸でソーセージを作ってもいいね! 私ならおいしく作れるからっ!」
 彼女は自分の思いつきに興奮して様子で、ピーラーのない方の手を、食肉解体用の包丁へと伸ばした。

「愛している……これは本当だよ憂日。私はずっと前からずっと好きだった。だから……私が食べるの……全部、私だけで……永遠に一つになろう、ね? 憂日」

 第一章
 はっと、光照憂日は目を開いた。
 どうやら眠っていたらしい。酷い夢を見ていた自覚があった。

「どうかしましたか? 光照さん」
 隣の席でハンドルを握っている女性が、探るように尋ねて来る。
 彼女は穏やかそうな印象を受ける整った目鼻立ちをしていて、控え目なスーツを着用し、ぴっしりとした姿勢で運転席に座っていた。
 ようやく憂日は自分の現在の位置について、思い出した。
 傍らの窓からの風景が後方に流れている。 
 彼は今、水素自動車の助手席に座っていたのだ。
 濡れた感覚に気づき額の汗を手の甲で拭う。七月と言う季節故にか、体の一部分が炙られているかのように熱い。なのに、送風口近くの場所は車のエアコンによって酷く冷えている。
 恐らくこの不快極まりない状況が、悪夢を呼んだのだろう。
 過去の現実、と銘を打たれた夢だ。
「どうやら寝てたみたいだ……何分経った?」 
 軽い頭痛を振り払いながら運転手の女性、武藤摩耶(むとう まや)に尋ねると、彼女は小さく首を振る。
「まだ出発してほんの一〇分ちょっとです。現場まで少しあります」
「そうか」
 憂日は一つ伸びをしたが、覆面パトカーの車内故にそれほど効果はなかった。

「済みません」 

 武藤が身体の向きを変えぺこりと頭を下げる。運転中だが、車は2030年になり自動化が進んだ結果、運転手の負担はかなり軽減されている。
 道交法で、もしもの時の為にハンドルは握っていないといけないが、他はほぼAIに任せられる。運転手は目的地をナビに入力して座っているだけでいい。
 だから武藤はちらちらと憂日の姿を見てくる。
『特務処理』係の刑事が珍しいのだろう。しかも、憂日はまだ一六歳、高校一年生だった。
「申し訳ありません、学校だったのに」
「ああ、それはいいよ」憂日は手を振る。どうせ彼の通う高校には、親しい友人などいない。

 これから昼、食事時になっても、憂日は学校の食堂の片隅で一人、いつも通りAランチを食べるだけだったのだ……午後の授業は惜しい気がするが。
「現場まであとどれくらいかかる?」
 憂日の問いに、品川区の大崎警察署から来た女刑事は唇を引き締めた。 
「後五分程です」
「了解」憂日は通っている槇原高校の夏服であるYシャツの上から、樹脂製のショルダーホルスターを被るように取り付けた。

 慣れた重みが左側から主張する。
 憂日の拳銃、CZ75前期型だ。
 ちなみに腰のベルトにもホルスターがあり、やはりCZ75前期型が収まっている。
 相手を考えると、拳銃一丁では心許ない。
 視線を感じ目を上げると、武藤刑事がじっと見つめていた。水素エンジンの自動運転車だから振動で気づけなかったが、信号で停止していた。
「……拳銃、持って来てくれてありがとう、これも」
 憂日は艶めく漆塗りの鞘を示す。刃渡り五〇センチの脇差だ。
 憂日は戦闘時、拳銃と脇差で敵と対峙する。

『凶人(デーモン)』との街中、建物の中での戦いにおいて、接近専用の刃物は意外と役に立つのだ。
「いいえ、仕事ですし……」武藤刑事の穏和そうな顔が曇る。

「本当に『特務処理』官なんですね? ……まだ高校生なのに」
「それ程レアじゃないよ。今や国家公務員法は特例ばかりだし、未成年の『処理』官なんて珍しくもない……まあ、最年少は俺だけどね」
「でも、人に銃を撃つんですよね?」
 ──なるほど……。
 憂日は納得した。
 彼を高校まで迎えに来て、装備を渡してくれた所轄署の刑事は、割り切れてないようだ。

 未成年の国家公務員、何よりも未成年の『特務処理』官をだ。

「武藤巡査、だっけ?」
「はい、武藤摩耶です」
 かなり根が真面目なようだ、年下の憂日を相手に言葉を乱さない。
「担当は?」
「捜査三課、盗犯です」
「そっかー」
 日本で『特務処理』係があるのは警視庁本部だけだ。つまり憂日も本庁の刑事、との立ち位置になる。
 捜査の折、バディとなるのは所轄署の刑事……慣例通りとも言えた。
 憂日が『特務処理』官でなければ、だ。
『特務処理』係は、その性質上、警視庁捜査一課に所属しておきながら、係を纏める係長だけしか上司はいない。管理官や理事官等から指示を受けることもない。
 彼らの係に命令を下せるのは、捜査第一課長だけであり、それも警察庁長官から警視総監へ……さらに遡ると法務省事務次官(法務大臣からの体で)から直接、発令される。
 部署と机は警視庁本庁舎にあるが、ほぼ独立機関と言ってもいい。
 本庁からの刑事だから所轄と組む……こんな単純な理屈ではだから通らない。彼らの仕事を考えると、バディに所轄署の盗犯係などあり得ない。
「……歓迎はされてないのかぁ」
 緊急時なのに覆面パトカーが覆面を剥ぐことなく、パトライトも出さず信号も守っているのも、捜査本部からの敬遠の意志を感じられた。

 人殺し(ハンター)は忌避される存在なのだ。

 憂日は腿に振動を感じ、学校の制服のズボンから携帯端末を取り出した。
『佐倉です。憂日君、今どこ?』
 タイミングでも計っているのか、佐倉係長は耳に当てた瞬間に話しを始める。
「現場まで後数分です」
『了解、では被疑者、目標を表示します』
 憂日は骨伝導イヤホンヘッドセットを頭に取り付け、タブレットの電源を入れた。

『北村秀一(きたむら しゅういち)二〇歳。早稲田大学二年生』

 有機ELパネルに、いかにもモテそうな、ふわりとした茶髪のイケメンが表示された。
「伝染者ですか? それとも自覚者?」
『そこら辺は今、森永さん達が当たっています。君は考えなくてもいいわ』
「今問題なのはこいつ、てことですね?」

『そうね。今から二時間前、警視庁捜査一課殺人犯捜査、第二係の桑山誠(くわやま まこと)巡査と、大崎警察署捜査一課の水木創(みずき そう)巡査が、品川区大崎二丁目にあるマンション、カーサ品川で目標と接触。目標は突如暴れ出し、その場で桑山巡査を殺害。ただちにカーサ品川の住民を退避させようとしましたが、逆上した目標はマンション住民9名を殺害し、一名を人質に取って立てこもっているそうです。目標が契約していた部屋は一〇階の103号よ』

「はっでな事件ですねー。凶人(デーモン)を甘く見るからですよ」
 自然と憂日は右手で左脇にあるCZ75前期型を撫でた。
「大体、事件発生は二時間前、警視庁の殺人犯係が目標に接触していたと言うのなら、それ以前から何らかの事件を起こしていたんでしょ? 今の今まで全く知りませんでしたよ」
『文句も反省も言い訳も事件を解決してからよ。それとも、私が行きましょうか?』
 憂日は少し慌てて「またまたー、大丈夫ですよー」と答えた。

 佐倉珠緒(さくら たまお)係長は国家公務員総合職試験に合格し、キャリア組として警視庁に警部補として現れた。なのに何故か『特務処理』係を希望して、何故か現場に出たがる無茶苦茶な上司だ。しかも階級は警視。
 当然、戦闘能力も高く、実際彼女のグロック26は、幾度も凶人を地に這い蹲らせている。
『分かりました。このケースはあなたに任せます』

 憂日が胸を撫でおろすと、タブレットが一人の少女の画像に切り替わる。
『人質となっている少女です。町田ののか、九歳」
「二時間か……」憂日は少女の奥手そうな瞳を見つめて呟いた。
「丁度小腹が減ってきた頃合いだ」
『そうね。でも、まだ生きていると信じましょう。目標の北村秀一は日頃からジムに通い、格闘技、キック・ボクシングも習っていたそうよ』
「モテるためでしょうねー。オスは大変だなぁ」
『格闘の際には気をつけなさい』
 同時にタブレットの画面の端に回転する丸が表示され、情報が更新された。
 北村の周辺を捜査している森永達が、新たな情報をアップしたのだ。

「流石、森永さん達、仕事が早い。ふーん、一週間前まで普通に食物を飲み食い……典型的な伝染ですね。凶人に転化してから一日か二日……まだ思慮が浅く、自らの食人欲求が抑えられないから、大暴れ」
『そうね、森永さん達も同意見だわ。だから今、躍起になって捜査している』
「自覚ではないから、伝染源、つまり少なくとも『凶人(デーモン)』はもう一人いるって事ですもんね」
『今は目標の処理を考えてなさい。油断できないわよ』
「油断したことなんて一度もないですよ……それが自慢です。任せて下さい、必ず処理します」
『期待しているわよ。目標に関する今必要な情報は以上です。がんばって』
 携帯端末の通話が切れ、憂日はシートに後頭部を押し着けて目をつぶった。

 伝染源……今度こそ、彼女かもしれない。そうだとすれば……ようやく……。

「……処理」
 今まで黙っていた武藤刑事がぽつりと漏らす。

「つまり殺すって事ですよね? 人を」

「聞いてなかった? 『人』じゃなくて『凶人』」
 フロントガラスから目を離さず、武藤刑事か唇をぎゅっと結んだ。
「凶人……『凶悪犯罪重要参考人』、ですよね? だったら逮捕した方がいいんじゃありませんか? 確か『特務処理』官は特例として捜査権も逮捕権もあるんでしょ? だったら……言葉も通じるのだし、逮捕して……」
「武藤刑事」
 憂日は頬を引き締めて、自分より一〇歳くらい年上の女性に、静かに語りかけた。
「あなたは拳銃を携帯していますか?」
「い、いいえ」
「うん、だろうね。なら凶人を知らない……少なくとも、知っていれば絶対に彼らがいる場所に、丸腰では近づかない」
「……少しは知っているわ」
 武藤刑事はややムキになったようだ。垂れ気味だった目尻がつり上がっている。

「……人を……食べる……ようになってしまった人です」

「五〇点だなー……四〇点かなぁ?」
「では何ですか? 凶人を射殺するのが仕事の『特務処理』係ではない私に、教えてください」
「化け物です」
 間髪入れず、憂日は答える。
「いいですか武藤さん。凶人はデーモンとアメリカでは呼ばれています。日本で『凶人』と呼ばれるのは、日本で起きた最初の事件の折、マスコミへの発表に苦慮した政府が、凶悪犯罪重要参考人、などと造語で誤魔化したから、それ以来、『凶』悪犯罪重要参考『人』で、凶人なんです。彼らの最大の特徴は人肉食ではありません。『伝染』です」

「……伝染」

「そう、伝染。凶人(デーモン)には得意な力が二つある。一つは人間でありながらそれを大きく逸脱した運動能力。もう一つは接触した『素質』のある人間を、高度な言語能力とコミュニケーション能力で、同じく凶人に変えてしまう……伝染」
 データに残る最初の事件がアメリカで発生した折、アメリカ南部の平和な田舎町で戦争が起こった。
 凶人と化した一人に、周囲の人たちが影響を受け、大多数の人肉嗜好者が現れたからだ。
 まるで悪性のウィルスのパンデミックのように、血を吸う吸血鬼のように、凶人の嗜好は言葉や文字、ボディランゲージを通じ伝染した。
 アメリカ政府は州兵を動員したが事態は収まらず、結局軍隊を出動させ、圧倒的な火力で町ごと凶人達を消した。
 そのプロセスは、精神共感、思考伝染、嗜好変異の順らしいが、『凶人(デーモン)』となった人間は速やかに殺害し、『伝染』を食い止める、が常識で急務となった。
 その為に作られたのが『特務処理』係だ。

 ちなみに、『特務処理』官の存在は公にはされていない。そもそも『凶人(デーモン)』自体が報道規制をされて、人々に気付かれないように厳重に秘匿されている。
 ネットの書き込みにも目は配られ、凶人関係の情報が上がると全て削除し、噂を『陰謀論』として否定した。そうなると情報を精査できない連中は、途端に興味を失うからだ。

 権力者の都合ではない。

 マスコミやネットを通じて、『凶人(デーモン)』に転化する者を減らすためだ。
 それでもどこからか嗅ぎ付けた弁護士達が、『凶人』たちの人権、と空論を唱えている。
 だから憂日は、『デーモン』の恐ろしさを知らない女性刑事の横顔に言った。

「加東正(かとう ただし)を知ってる?」

「名前……だけなら……知ってます」武藤刑事の答えは歯切れが悪い。
 あまりにも凄惨な事件だからだろう。
「加東正は、元は警視庁の刑事だった。だけどまだ『凶人(デーモン)』に対する『伝染』についてあまり知られていなかった時期に、『特務処理』係に配属になった……結果、彼は幾多の凶人と対している内に、精神共感を起こし、同僚が知らない間に思考伝染し、嗜好変異を起こして、三〇人殺して喰った」

 すうっと武藤刑事の頬から色が抜けた。だがこの話はここで終わらない。
「ようやく他の『特務処理』官が加東を取り押さえたが、射殺は出来なかった。まだその時……四年前は『凶人』の殺害に対する議論を、警察庁長官、検事総長、最高裁判所長官の三名が数時間かけて行っていたからだ。しかも加東は警視庁の刑事、つまり身内だったために、逮捕した綾瀬署は不用意に彼の取り調べを行った……結果、どうなりましたか?」
「……綾瀬署の半数の警官が精神共感及び、思考伝染を起こして、綾瀬署は壊滅しました」

 武藤刑事は無表情になっていた。この出来事については警察官の昇進テストでは必ず出題される。旧綾瀬署で発生した凶人伝染は足立区中を覆いかけ、自衛隊により鎮圧された。

 アメリカでは伝染者は全員その場で射殺されたが、法整備の整っていなかった日本では、足立区の伝染者を処理する法がなかった。だから特殊な監獄に分散して収監し、今も彼らは塀の中で人肉食の欲望に目をぎらつかせている。

 そしてその騒動の中、加東正は行方をくらました。

 囚われた伝染者の何百人もの家族は、何も知らされず、国家による不当な弾圧として、雨後の筍のように裁判を起こし、現在に至るも係争中だ。

 もたらされた教訓はただ一つ。

「武藤さん。『凶人(デーモン)』はその場で殺すしかない。もうその結論は出ているんです。どうやら未だ警察官の一部はその部分について納得していないようだけど、『特務処理』係の仕事は犯罪者の逮捕じゃない。『化け物』の駆除なんだ」
「でも……」武藤刑事が俯き、さらさらと肩まで伸びた清潔な髪が流れる。
「君はまだ一六歳でしょ? 『特務処理』官には、君のような未成年の少年少女がいるらしいけど……それは……私は、違うと思うの」
「ああ、それか……」憂日は柔らかく微笑んでしまった。
 どうやらこの女性が思い悩んでいたのは、彼の立場についてのようだ……心配してくれている……優しい人なのだ。

「あなたを誤解していました。失礼な態度をお詫びします」
 憂日は直裁に詫び、口辺を緩める。
「俺は仕方ない、これしかなかった……他の奴らもそうです」
「え?」

「『凶人(デーモン)』には特徴、特性があって、一度狙った『獲物』は絶対に追いかけてくる。どこまでも必ず、追いかけてくるんです……俺は、その一人に『獲物』と認定された」

 思い出すのは一年と少し前……今はない憂日の自宅のキッチンで微笑む、美しい悪魔。
 彼の両親と十歳の弟を料理して食べた、幼馴染みの女の子。
「俺には二つの道しかなかった。政府による厳重な監視を受けて、在日米軍基地の塀の中で守られて生きるか……牙を研ぎ力をつけ、絶対にいつか現れる『敵』に反撃する体勢を整えるか……あなたならどうしますか?」
 水素自動車が停止した。
 武藤刑事が絶句したからではない。現場に着いたのだ。
「ここまで、ありがとうございました」
 憂日は呆然としている武藤刑事に丁寧に頭を下げ、車を降りた。
 途端、今まで身を潜めていた初夏の熱波が彼に噛みついてくるが、憂日は肩を少し上げ、歩き出す。
 回転灯をびかびかと明滅させているパトカーが並ぶ、目的地にだ。

「大変なことになってる……」
 憂日は呟いてしまう。
 熾烈な日差しの下、どこから出てきたのか沢山の野次馬達が壁を作っていた。大方、警察の行動がネット掲示板にも書き込まれたのだろう。野次馬達の手にはスマートフォンが握られていて、カメラを先へ先へと向けている。
 さてと、と面倒で穏便な突入を決意するが、腿当たりがまたリズミカルに震えた。
 携帯端末を取り出すと、伊伏と名前が出ている。
「はい、これから修羅場で大変忙しい憂日です」
『それは悪かったなあ』

 電話の向こうで伊伏瀧矢(いぶし たきや)が苦笑しているのがわかった。伊伏は特務処理係の最古参だ。まだ三三歳なのだが、もう八年も一線で『生き』続けている。
 給料と反比例して高い殉職率を考えると、彼が日本の処理官の中で、最も腕の立つ男だろう。

 伊伏は感情のぶれのない声で、目標について補足する。
『目標についての新たな情報だ……どうやら、目標はあまりよろしくない集まりを開いていたそうだ』
「と言うと」
『サークルだ。しかも他の大学生、高校生の女子生徒ばかり登録している、閉じられた飲み会』
「あー、それ知ってます。エロ漫画で見ました」
『親は会社役員、随分と羽振りがよかったらしく、BMWの水素仕様を回していて、品川にあるマンションはサークル活動のために借りた、健全なるお遊びの場、らしい』
「うっわ、薄い本の竿役のウェーイ系の人じゃないですか……ヤなやつだなー」
『ちなみに、そのサークル活動の仲間達が一部行方不明だ……女の子ばかりな。五日ほど前からだ』
「一週間前までは人間だったらしいですからね。健全なお部屋に転がされているんでしょう……多分食料として」
『どうする? あるいは伝染者が数人いるかも知れない。俺を待つか? あと十分で到着する』
「つついてみますよ。ぼけーと待っているのは趣味じゃない」
『意気やよし、だなあ。で、これは昔の馴染みから聞いたんだが、どうやらSITが出動したらしい』
「あらまあ、人質救出に焦りましたね。これ以上の犠牲者は誰にとっても致命的ですからね」
『相手が普通の人間なら、それでよかったんだろうがなあ』
「多分失敗しましたね。成功していたらもう騒ぎは収まっている」
『凶人は人と数えるな。もう常識になっていると思っていたが』
「失敗しているなら全滅かなぁ。まあ、行ってみます。他の伝染者がいるのなら五日も身動きせず行方不明なのは変ですからね。多分みんなただの食料ですよ」
『人数分腹は減るからなあ。まあ、俺が続くんだ、無理はするな』
「了解」

 憂日は切れた携帯端末をしばし見つめる。
 憂いはなくなった。もしも彼がここで倒れても、続くのが伊伏ならば確実に処理し尽くすだろう。
 彼は肩の力を抜いて、野次馬たちの背中に近づいた。
「すみませーん、とおりまーす」と声を上げながら割り込み、押し合いへし合いの後、ようやく最前列にたどり着いて、黄色い規制テープを持ち上げてくぐる。
 どうやら一帯が立ち入り禁止になっているらしく、平日の真っ昼間だと言うのに人の気配がない不思議な住宅街の車道が現れる。
 並ぶマンション、静脈色のアスファルトの道路、一足早い蝉が止まっている灰色の電信柱。

「君! 入ったらいけない」
 すぐに紺色の制服姿の警察官に声をかけられた。
「あー、いいんですー」
 憂日は携帯端末を取り出し画面を向ける。
 そこには警視庁のマークと、彼の顔の画像、識別の為のバーコードが並んでいるはずだ。

「と、特務処理官っ!」

 がっしりとした顎の警察官は驚いたようだが、仕方がない。
 自慢じゃないが光照憂日は見た目はインドア派の陰キャなのだ。誰もが忌避する特務処理官の想像上の姿形をしていないのだろう。
「失礼しました、どうぞ」
 制服警官は敬礼をするが、表情は強ばっている。やはり歓迎はされていないようだ。
 少し歩くと覆面パトカーが二台、白いバンが一台止まっており、地味な背広の男達が、深刻そうに覆面パトカーのボンネットに電子デバイスを置き、顔をつきあわせていた。

「特務処理係、光照憂日、到着致しました」

 憂日は敢えて姿勢を正し、敬礼をして見せる。
 本庁組故に顔が分かる、乃木正義(のぎ せいぎ)警部が、日に焼けた顔に渋面を作る。 
「……行ける、と踏んだんだがな」
 現場指揮官たる乃木警部は、血走った目を閉じて溜息をついた。
「ああー、無理です。凶人関係は普通の刑事さんではダメですー」
 憂日がにこやかに答えると、乃木警部は額の汗を乱暴に拭った。
「ただのコロシだと思ったんだ。実際、奴が凶人だと気付いたのは一昨日だ……仕方ねえだろ?」
「一週間前まではマトモだったらしいですからねー」
「ああ」

 乃木警部は爆発しそうな爆弾のような、剣呑な面相をしている。
 道で出くわしたら警察官とは思わず、誰もが自分の財布の行方か、これからの健康状態について心配になるはずだ。
 だがそんな凶悪な面構えに、珍しく悲壮感が漂っていた。

「ガサ入れて、一気に……て、考えちまった。たかがハタチの若造に桑山が負けるなんてこれっぽっちも浮かばなかった。ちゃんとけん銃を持たせたし、マル被をパクれると、判断した」
 桑山誠も知っている。一九〇センチの背丈に筋肉を巻き付けた、質実剛健が服を歩いているような猛者だ。勿論、柔剣道の達人で、警察で行われる大会の優勝者の常連でもあったらしい。
「……結果がこれだ。最初の桑山を抜かしても九人殺されて、一〇人目が捕まっている」
 憂日は振り返り、一〇階建てのマンションを見上げた。

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