義務と権利の哲学
義務と権利という言葉は聞き馴染みがある一方でその定義は人により曖昧ではないでしょうか?
そんな言葉を哲学したいと思います。
ある日。ぼんやりとテレビを見ていると。その番組は番組側が用意した素朴な疑問に現役東大生が答えるというものでした。
そのお題の一つが『なぜ人を殺してはいけないのか?』だっのですが、東大生が出した答えは『法律で決まっているから』でした。
それを見て私は『東大生でもこんなレベルなのか……』と落胆したのを覚えています。
法律が無くてもやってはいけない行為だということは言語化できなくても多くの人が感覚的に思っていることだと思いますが、そこを私があえて言語化しようと思います。
それを話す前に話を『義務と権利』に戻しましょう!
義務と権利には『人工的義務と権利』と『物理的義務と権利』があります。
『人工的義務と権利』はその名の通り人為的に作られたものであり、例えば『人の物を盗んではいけない』ということで、『物理的には可能であるが法律により制限されている』等の状態を指します。
『盗んではいけない』は販売する側と消費する側との関係が円滑になる為のルールですね!
この場合は見つからなければ『罰を受ける義務』無しという事になりますよね? それに状況によっては必ずしも正しい訳ではありません。
両親に捨てられた幼い兄弟が空腹に耐えかねて盗んだ場合はどうでしょうか? 彼らは罰を受けるべきでしょうか??
対して『物理的義務と権利』とは、『高いところから飛び降りる権利と同時に高さに比例した怪我を負う義務』がある等の状態を指します。
前者の場合は見つからなければお咎め無しで警察に捕まる覚悟があれば実行して良い事で、詰まるところ罰則を受け入れるなら、或いはやむにやまれずならば法律違反は『やっても良い事』に分類されます。
皆さんも覚悟があるなら気に入らない人は殴っても良いし盗んでも良いのです。
法律はあくまでも違反者を罰する為に有り、人間の行動を縛るものではないのですから!
それに対して『物理的義務と権利』は義務が必ず実行されます。
地上100mから飛び降りる権利は万人にありますが、死ぬ義務が万人に強制執行されます。
こちらは『死にたくないならやってはいけない事』に分類されます。
『人工的な権利は脆弱で義務は罰則のみか無し』対して物理的義務は『権利を行使したら必ず義務が執行される』という違いがあります。
ここで『人を殺すのはなぜ駄目なのか?』に戻りますが、例えば私が気に入らない人物を殺害したとします。
その遺族も私と同じ自由があるわけですから私を殺害する『物理的権利』が有ります。
遺族が殺害を望むなら私は命を狙われますよね? ということは私は自分自身で死ぬ確率を上げてしまった事になります。
人間いつ死ぬか分かりません。
病気か事故か原因は様々ですが、そこに遺族からの怨恨を自ら足してしまうのですから死亡する確率は跳ね上がってしまいます。
殺害したことで『遺族から命を狙われる物理的義務』が発生してしまったのです。
これで答えが出ましたよね?
人を殺してはいけない理由は『自分が死ぬ確率を減らす為』です!
逆に言えば『死ぬ確率が上がる義務を負う覚悟があれば殺しても構わない』ということが分かります。
それが分かれば不必要に正義感を振り回して他人を叱責したり、神経を逆撫でるような発言は『他人に殺害を覚悟させる』行為であり、天寿を全うしたかったら『やってはいけないこと』だと理解できるはずです。
仕事の関係者、または身近な人やパートナーに対して不必要に傷つけるような発言はしていませんか??
東大生よりも賢く長く穏やかに長生きしたいものですね。
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