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やっぱり乗っている方がよかった ~夏目漱石「夢十夜」より第七夜を読む~
悲しいニュース
2025年1月末、とても悲しいニュースが報じられました。
それは、2024年に自ら命を絶った小中高生の人数が過去最多だっだというニュースです。
こんな悲しい状況は、何としても食い止めないといけません。
私は、このようなニュースが報じられるたび、思い出す話があります。それは、夏目漱石の「夢十夜」という短い作品です。その題名のとおり、漱石の見た十の夢が描かれているのですが、その中の第七夜では、自ら命を絶った人間の最期が描かれています。
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私たちは、その決断をしてしまった人から直接話を聞くことはできません。
そのような人は、いったい最期にどんなことを考えるのか―それが描かれているのがこの第七夜です。
どこへ行くのか分からない船
「自分」は大きな船に乗っています。しかも、この船はどこへ行くのか分かりません。私は、「船の男」つまり乗組員にこの船が西へ行くのかを尋ねるのですが、満足な返答はなく、「自分」は心細くなっていきます。
自分は大変心細くなつた。何時陸へ上がれる事か分らない。さうして何処へ行くのだか知れない。
(『定本 漱石全集 第十二巻』岩波書店、2017年、119頁)
この話における「船」は、きっと人生を表しているのでしょう。いったいこれから先、どうなっていくのか分からないとき、私たちは不安で不安でたまらなくなります。
さまざまな乗客
そして、「自分」は考え始めてしまうのです。
自分は大変心細かつた。こんな船にゐるより一層身を投げて死んで仕舞はうかと思つた。(前掲書120頁)
乗客は決して少なくありません。例えば、「自分」は、手すりに寄りかかって泣いている女性を見つけます。そして「自分」は、「悲しいのは自分ばかりではないのだな」と感じます。このあと、「自分」はこの女性には話しかけません。もし話しかけていたら、より悲しい結末が待っていたのかもしれません。
自分が悲しい気持ちのとき、出会うべきなのはどんな人か……これはなかなか厄介な問題です。
確かに、自分と同じ感情の人を見つければ、「自分だけじゃないんだ!」と感じて元気になれるでしょう。
けれども、「自分」のようなことを考えている人が、同じことを考えている人に出会ったら、その先に待っているのは最悪の結末でしょう。だから、人は異なる考えをもっている人も大切にしなければいけないと思います。
さて、「自分」は、泣いている女性を見つけた後も、なかなかよい出会いに恵まれません。
次に出会ったのは、天文学の話をしてくる人。その人が興味をもっていることばかりを一方的に話されても、苦しんでいる人には何の効能もありません。
次に「自分」が見つけたのは、ピアノを弾いている女性と歌を歌う男性。ここで私が注目するのは、「二人は二人以外の事には丸で頓着してゐない様子であつた」という記述です。
精神的に追い詰められている人にとって、なかなか自分に関心をもってくれる人に出会えないこと、そして自分のやりたいことをやっているだけでこちらに目を向けてくれない人を見ることは、相当なダメージだと思います。実際、「自分」は、この二人を見た後、決心してしまいます。
そのとき
「自分」は海の中へ飛び込みます。しかし、そのとき、「自分」はこんなことを思うのです。
急に命が惜くなつた。心の底からよせばよかつたと思つた。けれども、もう遅い。(前掲書121頁)
もしかしたら、このように思った人は、「自分」だけではないのかもしれません。
さらに、第七夜の末尾では、「自分」の最期の気持ちが次のように描かれています。
自分は何処へ行くんだか判らない船でも、矢つ張り乗つて居る方がよかつたと始めて悟りながら、しかもその悟りを利用する事が出来ずに、無限の後悔と恐怖とを抱いて黒い波の方へ静かに落ちて行つた。(前掲書121頁)
これを言い換えれば、「どうなるか分からない人生でも、やっぱり生きている方がよい」ということです。悲しい決断をしてしまった人間が最期に抱く感情は、漱石によると、「無限の後悔と恐怖」なのです。