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物は言いよう、使いよう、
『物は言いよう、道具は使いよう』
これは私が勝手につくった慣用句です。
『物は言いよう』とは、
「同じことでも言い方によって、良くも悪くも印象が変わる。」
といことですね。
教室の子どもたちは、しばしば私の話や説明に
イチャモンをつけます。
私はメリットを強調して説明するので、
確かにその反対にデメリットもあるでしょう。
でも、
「あえて良いように言った方がやる気になるし、
思い切って前に(作業を)進めることができるものだ」
と、返します。
そして、
『道具は使いよう』とは、
たとえ良い道具を持っていても
正しい使い方、適切な活かし方を知らなければ、
ただの「物」だということです。
これは私が父の日曜大工を手伝うたびに言われていたことです。
ノコギリの挽き方。
金槌の打ち方。
サンドペーパーのかけ方。
一つ一つ、仕組みとコツを教えられ、
あとは、自分で考えてやってみろという風でした。
絵や工作でも道具をつかいます。
せっかく道具を使うのですから、
効果が無くては意味がありません。
時には作品を台無しにしてしまうこともあります。
道具を使う目的を定めて、
その仕組みとコツをつかむために
考えて、見て、触って、聞いて、嗅いで、
五感を研ぎ澄ませて、
監察することが大切です。
(いや、味覚はあまり使いません)
正しい使い方に辿り着くと何かしらその証が現れます。
それは、
ハサミを正しい音であったり、
筆先のしなる手応えであったり、
ヘラが残した筋であったり、
とても細かな事ですが、見逃してはいけません。
もし、その道具そのものが無かったときも、
仕組みとコツを叶える代わりの物があったら、
そして、仕上がりに大差が無く使うことができたら、
それそこ「ものは使いよう」でしょう。
教室では高価な道具は代用せざるを得ない時があります。
そんな時、代替えになるものを発見して、
その上、みんな上手く使いこなすことができた時は
なんと嬉しいことでしょう。
例えばストリングアートの釘打ち。
20mmほどの短い釘を頭を10mmのこして打ち込む必要がありますが、
釘をまっすぐに打つことも難しいのに、
抑える指を打たないわけがありません。
釘を抑える専用の道具もあるのですが、それなりに高価です。
探しに探して見つけたのが「クギ打ち王」という名のそれ。
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短い釘用の補助具なのですが、
サポートの高さまでで打つのをストップすれば、
釘の頭がおよそ10mmでそろうという、
なんとピッタリなアイテム。
当時はありませんでしたが、
私と同じことを考えた方がたくさんいるのか、
今では買い合わせ商品に曼荼羅アートキットが紹介されています。
裏でほくそ笑む私がいます。
板に押し当てて水平をとったり、
挟んでキープする時に握力が必要なところや、
打ちすぎると樹脂の製品に食い込み壊してしまうところなど、
コツをつかむための難易度も子供達にピッタリなのでした。
そんな風にして手に入れた仕組みとコツを
頭の中の引き出しにしまって、
必要な時に必要な引き出しから取り出し、
自慢げに使いこなしてくれたら・・・
そんなに嬉しいことはありせん。