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充実した時間

「充実した時間とはつまりフロー状態で過ごした時間であり、充実度合いはその深さである」という僕の持論がある。

ここでいう「時間」は月や年単位の長期的なスパンの話ではなく、精々半日〜数時間程度の短期的なスパンでの時間だ。話を進める前に「フロー状態」という概念についてざっくり説明しておこうと思う。フロー状態とはある物事を行っている時、そのことに完全に集中してのめりこんでいる精神的な状態のことだ。感覚としては「忘我状態」や、スポーツ選手などが用いる「ゾーン」といった表現が近いかもしれない。ともかく物事に深く集中している状態のことをフロー状態と呼ぶ。

で、大抵の人にとってフロー状態に最も近しい精神状態で過ごしている時間は、睡眠中ではないかと思う。夢すら見ないような深い眠りがベストだ。睡眠中、人は外界からの刺激に対しての反応が極端に鈍くなる。もちろん全ての刺激に対して全く反応しなくなるわけではないが、少なくとも覚醒時のそれと比較するとその差は明らかだろう。また、睡眠中は意識がない為、あらゆる他の行動への欲求も半自動的にシャットアウトされる。眠っている最中に唐突に「コーラ飲みたい」とか「youtube見たい」といった突発的な欲求に脳をジャックされる人はそうそういないはずだ。トイレくらいならあるかもしれないが。ともあれ、覚醒中に行い得るありとあらゆる行動について、睡眠時間中のそれよりも雑念から離れた状態で行うことは難しい。不可能だと断じてしまってもいいだろう。少なくとも僕は睡眠中以上に何かに深く集中した経験はないし、それができる気がしない。睡眠中の人は睡眠という行為にとても集中しているのだ。

さてここで冒頭の持論「充実した時間とはつまりフロー状態で過ごした時間であり、充実度合いはその深さである」を前提とするならば、僕にとっては睡眠時間こそ最も充実度が高い時間という事になってしまう。考えてみればそれはその通りかもしれないし、真理なんてものは意外と単純で原始的なのかもしれない。少なくとも今のところ僕は、この「睡眠至上主義」とでも呼ぶべき論理に対する反論材料を、「非生産的である」以外に持ち合わせていない。そして、「人は誰しもいつか必ず死ぬ」「死んだあとは何も残らない」という2点を踏まえると、非生産的である=悪だと断じてしまうのは、少し暴論のようにも思える。(そもそも論として、事の発端は充実した時間とは何かという議論なので、それが生産的かどうかで語るのはややピントがずれている気がしないでもないがそれはさておき)

僕は充実した時間を過ごしたいと思っているので、睡眠至上主義に基づいて長時間眠る事に対してもっとリソースを割くべきなのかもしれないが、睡眠至上主義に全面賛同するのには心情的に抵抗がある。流石に退廃的すぎる気がするし、その先に真の幸福が待っていると信じられるほどの楽天家にはなれそうもない。それに仮に全身全霊でこれを追求しようとするならば、いずれ社会的な立場とのトレードが必要なフェイズが訪れてしまうことは避けられない。


どうやら新しい充実の定義が必要がらしい。

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