矛盾しあう諺
まだ小学生くらいの幼い時分、国語の授業で学ぶ諺というものに得も知れぬ違和感というか、ある種の胡散臭さのようなものを感じていた。ある時は「大は小を兼ねる」などと言っておきながら、同時に「過ぎたるは猶及ばざるが如し」などと嘯く。ペテン師もかくやという二枚舌。これでもかという程わかりやすい矛盾に、幼いながら騙されてなるものかという気持ちがあった。そんなわけで、諺なるものをわざわざ授業の時間を使ってまで学ぶことにどこかバカらしさを感じずにはいられなかった。
時は流れて、年齢と共に様々な経験を積むうちに、諺が問題の本質を短い言葉で端的に言い表しているような場面に出くわすことが意外と多いことに気がついた。これはこのことを言っていたのか——そんな時に諺の妙を感じる。また、ある場面では別の諺でこれと似たような体験をする。こんなことを繰り返しているうちに、ふと「諺とは真理ではなくツールだったのではないか」と思うようになった。
ツールとはどういうことか。これはじゃんけんに例えるとわかりやすい。例えば「大は小を兼ねる」がグー、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」がパーだとしよう。問題の本質がチョキであるならばこちらはグー(大は小を兼ねる)を使って対応し、グーであるならこちらはパー(過ぎたるは猶及ばざるが如し)を使う。時と場合に合わせて対応したツール——すなわち諺を使い分ければいいのだ。幼い頃に感じた諺の矛盾とは、異なる場面を想定したツールを同一のベクトルで解釈しようとするから生じていたのではないか。じゃんけんでグーチョキパーを組み合わせた「グッチョパ」のようなものを出したらそれは反則だが、3回のじゃんけんでそれぞれを1回ずつ出すことは何ら問題ない。
幼い自分が思っていたよりも世界は遥かに複雑で、その複雑さ故に生じる様々な場面に対応しようとすればこそ、時に矛盾しあうような諺が生まれたのかもしれない。
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