ウクライナ国立バレエ、続くカーテンコール
ウクライナ国立バレエの「ドン・キホーテ」に行ってきました。
神奈川県民ホール、12月17日、曇天の下、そこには紛れもなく奇跡的な時間が流れていたように思います。
特に第三幕の回転や跳躍といった超絶技巧は息を飲む他ないものでした。
終了直後、オケの演奏者数人が、隣の演奏者の膝を手のひらでポンポンと優しく叩き合っていました。
幕間にバレエ少女らしき子は、身体が勝手に動いてしまっているかのように休憩用のロビーで踊っていました。
母親達(かつてバレエ少女だった面影のある)は、側にいる子供を忘れたかのように立ち上がり、顔を紅潮させながら拍手する光景がありました。
確かに我々観客は、ダンサー、舞台芸術、オーケストラ、スタッフ達の並々ならぬ気迫を肌で感じていたのです。
バレエを観る、それ以上のものでも、それ以下のものでもない。ただ、目の前の舞踊と音楽に集中する。今は戦争のことは考えない。そういった背景や情報が目の前の純粋芸術を曇らせるから。その心積りで幕が上がるのを待っていました。
やがて開幕すると、あの伸びやかな腕、脚、表情によって、全身で踊ることの喜びが舞台上で表現されていました。いつの間にか、心は目の前の鮮やかな光景に奪われており、何も考える暇などありませんでした。「消費」してしまうことへの抵抗や、副次的な文脈による「曲解」への恐れは霧消していたのです。
やがてフィナーレを経てカーテンコール、そこで初めて「ハッ」と我に返ったような気がしました。拍手と歓声はいつまでも止む気配が無く、それを満面の笑みで繰り返し応え続けるダンサー達。熱狂とも言えるエネルギーがホール全体を包み込んでいたのです。帰りしな、自分の手のひらがジンジンと痺れていることに気づきました。
後日、評論家である三浦雅士の文章を読み、合点したと同時に、この経験が整理されたような気がしました。
今のダンサー達にとって、最高のパフォームをすること、生の喜びを表現することが、どれほど大変なことかを計り知ることはできません。しかし私が目撃したものは、悲観や感傷とは遠く離れた人間賛歌、芸術賛歌に溢れた世界でした。
それは奇跡的な時間で、かけがえのない公演でした。