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20240303内田修ジャズコレクションセミナーへ①

本日はこちらに参加してきました。

日本のジャズの昔話が聞けるとか。

とりあえず喫茶店で腹ごしらえ。

鉄板インディアン。


ケチャップかけたらナポリタンです。
カレーかけたらインディアンです。
粉チーズはマストです。



内田氏は岡崎出身の外科医でジャズの愛好家でした。ここまでならよくある普通の話です。

違うのは、『とてつもない』愛好家だったという点で。87年の生涯を通じて数多くのジャズミュージシャンを支援し、多数のレコードやライブ音源を収集し、自ら録音し、自宅にスタジオまで作り、金に困ったミュージシャンがいれば自宅や自分の病院に泊め、病気や怪我の治療費まで面倒を見たといいますから筋金入りの好事家です。


ただのパトロンと言えばそれまでですが、アート・ブレイキーやオスカー・ピーターソンやセロニアス・モンクまでが内田宅に来たと言うんですから、そこまで行けば世界一流のパトロンであると言えます。


そんな『ドクター・ジャズ』こと内田氏が生前に岡崎市に自身の膨大で貴重なコレクションを多数寄贈しました。それが現在、内田修ジャズコレクション展示室に収められています。これらの資料は日本の胎動期のジャズ史の検証資料としても大変貴重なものです。

で、そこでセミナーイベントやると。
ゆーんで拝聴しに行って来ました。


ピアニストの佐藤允彦氏と音楽家の大友良英氏による対談形式のイベントで、お二人の軽妙なトークで『昭和のジャズ伝説』を色々と面白く聴くことが出来ました。

『ジャズのミュージシャンというのはね、しちゃいけないことをするし、食べちゃいけないものを食べるし、飲んじゃいけないものを飲む、そして金は常に無い、ジャズの事しか頭に無い、という人種ですから健康とは一番遠い所にいますよね、、』

『だから内田先生には皆、当時とても助けられたんです。ドラマーの某という人が入院してた時に、病室にドラムセットを持ち込んで叩いてたんですよ。それであの人はほら、昔から鈴に熱心でしたから。おりんをチリ~ン、と病室で鳴らすんですよ。そうしたら婦長さんが飛んで来て、頼むからその葬式の鈴だけは病室で鳴らさないでくれ周りに入院患者がたくさんいるからって、、』

『当時、こちらの病院でお仕事をされていたから東京の方で行われるライブを観られない内田先生は東京のミュージシャンに高価なオープンリールのテープレコーダーを預けていたらしいんですね。この機械を置いておくから、良いライブがあれば演奏を録音しておいてくれと』

『え?本当に?それよく質に流れなかったですね、誰に預けたんですか?一体、、。それは危険ですね、実に。よく無事だったな、それ』

『当時、ジャズやってる連中が顔を合わせるとね、まず「おたく、何の楽器やってんの?」と尋ねるわけです。で、その次に「で、おたく誰やってんの?」と問い掛ける。すると「チャーリー・パーカーやってます」とか「俺はソニー・スティットやってます」とか答えるわけ』

『あの人はセロニアス・モンクやってるから。難しい事に挑戦しててえらいね、とか言ったりして』

『佐藤さんは誰をされてたんですか?』

『僕はオスカー・ピーターソンやってます、って当時言ってて、、』

『でね、彼が来日した時に観に行ったんだけど、会場入りが遅れてね、そしたらイベンターが僕のとこに来て「佐藤くん、頼むよ。君、オスカー・ピーターソンやってんだろ?オスカー来るまで繋いでくれないか」って言うわけ。』

『で、一生懸命弾いてたんだけど、ふっと後ろに気配を感じてね、そしたら足下に、こんなでっかい革靴が見えてね、振り向いたらオスカーが立っててね、、、』

『すいません、すいません、って慌てて椅子を譲って、、、。その時に強烈に思ったのは、ああ、これじゃだめだ。誰々やってますって言ってたらその本家が来たら平身低頭して道を開けなきゃならない、自分自身がきちんと何者かにならないと、って思ったね。その後、バークリー音楽院に留学して、、、』


後でネットを探してみたら、。
レコードがありました。



てか銀巴里でやってたんですね、、。
銀巴里ゆうたら美輪明宏がシャンソン歌ってた小屋ですよね、確か。
ジャズもかけてたんですねえ。
ほいで面子がまた凄いな、、、。


まだ続きます。
ちょい長くなりそうなんで前後編に分けます。

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