僕には昔イマジナリーフレンドがいた。イマジナリーフレンドが何か一応説明しておくと、幼少期なんかにみられる現象で、架空の友人を頭の中に作り出して遊んだりすることだ。子供は『○○くんがね』みたいなことを言うのに親からしてみればそんな子はいないし幼稚園にも在籍していない、子供の頭の中に存在する謂わば幻覚のような存在。それがイマジナリーフレンドだ。昔から子供には幽霊や妖精がみえるなんて言われてるのももしかすると、同じような理屈なのかもしれない。 そんな少し不思議なイマジナリーフ
ここに一つ0があるとしよう。この0は一体どういう経緯を経て出来た0だろうか。1と-1が相殺されて出来た0だろうか。それとも3億が打ち消されてできた0だろうか。ぱっとみただけではその真偽はわからない。しかし、我ら人間というのはいくつになっても大きな数に思いを馳せる生き物ではなかろうか。小さな数が産まれ消えてゆくものより、大きな数字を通って結果的に産まれた0という方がやはり格好もつくだろう。大きな波の中、自分という人間が誤差になるほどの大波の中産まれる数字こそが有難く、尊いもの
手を洗う時、まずはハンドソープをつけて洗う30秒ほどかけて隅まで洗って水を流す。手を乾かしてその場から去ろうとすると最近はアルコール消毒をよく見かける。手を洗った後にアルコール消毒をしても意味がないと聞いたことがあるが、僕の精神的除菌力を向上させるためにアルコール消毒をする。アルコール消毒をすると「あれなんかこのままアルコールが手に着いたままなのなんか怖いな」と思いもう一度蛇口に戻りハンドソープで手を洗う。その場から離れてもう一度アルコール消毒液が目に付く→癖でもう一度消毒
たいていのゲームは半年間ガチでやりこむと、低く見積もっても上位50%に入れる。人生ゲームなんかの運要素が強すぎるものを除いて考えると大体半数以上を超えることが可能で、1年もやると上位20~30%に入れる可能性はかなり高い。これ以上になるとそう簡単には上がらないが、まぁ所謂中級者になるには1年もあればたいてい到達できる。これはみんなが知ってる簡単な理屈で、実力の人口グラフはピラミッド型になっていることが多いからだろう。 一番下に初心者がその上に初級者、エンジョイ勢、それ
僕は開き直るときの感覚が好きだ。 子供の頃、遊んでるときなんかに突然雨が降り始めて少し濡れたりすると気分は最悪だった。「また母親に怒られる」なんて思うと憂鬱で仕方なかった。しかし、もう防ぎようのないほどの雨風が吹き始めれば話は違う、「ここまで濡らすならもっと濡らしてみろ!かかってきやがれ」みたいな気持ちになって、その上持っていた傘が壊れたりなんかすれば気分は『最高潮で有頂天』なんて感じになってくる。何らかの防衛本能なのか、気分がよくなってくるのです。 きっと、どこ
昨日、僕の誕生日に知人が僕の一番欲しかったものをくれた。 大事にしないといけない シャツ8000円、靴下1500円、Tシャツ7000円、パンツ3000円、ズボン1万円、ジャケット1万5000円、コートで2万円、それは僕の渾身の服で、昨日着ていた服でもあり、僕が着るアイテムの中で 気兼ねなく身に着けることのできる金額の上限である それ以上の金額のものや限定ものなんかを身に着けると、汚してしまう心配や壊してしまう恐怖心が生まれてしまう。まさに服に着られているとい
もし、空を飛べるのだとしたらどの形で飛ぶのが理想なのだろうか。 鳥のように空を飛びたいと言いう人は結構いるが本当にその飛び方は理想だろうか、鳥にもよるかもしれないが結構大変そうだ、思ったより全然バタバタしていることが殆どだ。本来ならば虫の、多分トンボあたりの飛び方が理想なのかもしれないが、空を飛びたいなんて素敵な空想の話をしているときに一生懸命トンボについて力説するターンがあるというのは会話として大丈夫なのか?どうせ空想なのだからもっとロマンのある飛び方で飛んでみたいと
最近毎日noteを投稿しているのですが、今日は少し筆を休めたいなとおもいます。正確には筆はとっていないのでキーボードですし、この間もキーボードを叩いているので何を休んでいるのかはいささか疑問が残るところではありますが。 このnoteはほとんど自分の独り言で、ただ垂れ流しているだけのものです。ここまで毎日noteを書いてきて今思うのは、自分の書いているもののジャンルとハッシュタグのつけ方がわからないということです。僕の書いているものは創作でありこそすれど小説に分類してもい
中学生の頃、よくわからない校則があった。それは「ラインの入った靴下を履いて来てはいけない」というものである。体育祭の練習期間中に履いてくると最悪で、ばれると自分が所属しているブロックの点数が本番でとった点数から1点引かれ、ブロック全員の前で謝らされるのだ。いわゆる連帯責任というものである。今でいう「ブラック校則」というやつなのかもしれないものかもしれないし、何か正当な理由があったのかもしれない。現在でこそよくあることだということが分かったが、当時の僕たちには理不尽で、中学生
引っ越しはいい、自分の生活の単位が短くなるから。 「僕は引っ越しや長期の旅行なんかで自分の生活が変わると少し不安になる。不安になって、毒にも薬にもならないことやものの多量接種を始める。なんとなくエッジのないコンテンツなんかを好むようになるのです。いつもの自分であれば見ないであろう山も谷もないものを見ることで、自分の精神状態も凪のようになればと心の何処かで思っているのかもしれません。そうして自分の部屋が出来上がるまでこれを繰り返します。この間、引っ越した街の悪いところを言
いまだに解せない事がある。 僕が小学生の時の話なのですが、いつものように学校が終わると僕は友達の家に遊びに行きました。友達の家に遊びに行くと友達から「今日は小学校へ遊びに行こう」と言われ、学校へ行くことになりました。 学校へ着くと、グラウンドのほうで同学年の生徒達がサッカーをしていました。友達はその同級生たちと遊ぶつもりだったらしく、どうせだったらと僕も一緒に連れてきたということでした。僕はその同級生たちとはクラスも違い仲も良くないため殆ど面識がありませんでしたが、な
個室はいい。個室にいるだけで外界から遮断されたような気持ちになれる。 僕は狭い個室というのが好きで、一畳くらいの空間にいると何となく満たされる気がする。なのでトイレなんかはとても落ち着く。トイレにこもっているときは至高の時間といっても過言ではないので外から声が聞こえるとすごくビビッてしまう。侵略者が近づいてくるような気持になってしまうのだ。 僕が一畳ほどの空間が好きなのは僕が一畳程のスケールの人間だからなのだろうか?外は広すぎる。どんなに景色が変わってもローディング
雑音や揺れが大きくて、眠たいのに眠れない。俺は電車の中から流れる景色を眺めながらとりとめのないことを考えていた。 殆ど使うことがないのになぜか覚えていてふとした時に頭に浮かんでくる言葉がある。それが 「いきしちに」 俺はこの言葉を使ったことがない。一応説明すると、「いきしちに」とは五十音表の「イ」つまり「i」を母音とする言葉の順番を数えるための言葉だ。つまり、「あかさたな」のバージョン違いだ。そう、この言葉「あかさたなはまやらわ」を知っていれば覚える必要がないのだ。
こと僕にとって、何かを始めることは途轍もない勇気が必要だ。どれだけ理屈を重ねても、リスクと未知が気になってしょうがない。何かを始めようと決意が必要なことなんてのは、僕にとって大きな事柄なので当たり前といえば当たり前だ。誰だってやったことのない大きな事をするのは怖いのではないか。それでも、やろうとしているのだから僕の中に確かな意思はあるはずだ。僕はその意思を 人間の形で実体化させたい なぜそんなことを思うのかと言うと、僕は一人で始めようというときには尻込みをしてしまうが
子供の頃思っていたことがある。多分みんな口に出さないだけで思ってはいたことではないだろうか。 僕が子供の頃、理科や保健体育の授業で人体の勉強をしているとき毎回思うことがあった。それは ”僕には内臓があって欲しくない” ということだ。何も死に急いでるわけではない、ただ教科書や人体模型に描かれた内臓は子供の僕にはあまりにもグロテスクで自分の中にこんなものがあるということがどうにも許容できなかったのだ。あまりにも現実的だった人間の中身を絵や図で見るたびに僕は力が抜けていっ
先日からnoteに投稿を始めたのですが、「そういえば僕のことを全く話してないまま投稿を続けるのは流石に『不審なのでは?』」と思ったのでこのnoteの目的や軽い自己紹介を交えて話していこうと思います。 まず、このnoteを書いている目的は主に ・ものを書くということのハードルを自分の中で下げること ・文章能力を上げること ・常に何かネタになるものはないかと探せるようになること ・あわよくば皆に見てもらえること となっていて、シンプルで自己中心的な理由です。僕は基本的に飽