※600字です 殺人加害者の母親からの賠償金で酒に溺れて悲嘆にくれる被害者の父親・克。 気持ちはわかりますが、社会通念的には共感を持つことがむずかしい存在です。 父親・克と今の夫・直樹との関係も含め嘘と謎だらけの母・澄子。 むしろ、早い段階で殺人の動機がいじめであったことがわかっている被告女性に同情してしまいました。 しかし、彼女が直接克に伝えた心情や法廷で述べたことは本当の気持ちだったのか? 克の家族が彼女と彼女の母親にしたことを考えると、ラストの彼女の表情に底知
午前十時の映画祭14で、公開以来久しぶりに劇場で鑑賞しました。 公開当時は冒頭のオマハビーチのリアルで残酷な戦闘シーンに圧倒され、正直言うとその後の展開はあんまり印象に残っていなかったんです。 なので、この映画は自分にとっては、やはり「オマハビーチ」のリアルを描いた作品、戦争の残酷さを描いた作品であり続け、その後のストーリーに思いをはせることはありませんでした。 今回鑑賞して、特にハッとしたのは、ラストの年老いたジェームズ・ライアンがミラー(トム・ハンクス)の墓前で、寄り
※2,900字です。 互いを思いやりやさしく生きる平凡な夫婦が、東西全面核戦争による原爆投下で被ばくする姿を恐怖と悲しみに満ちた映像で描く英国のアニメ映画。 この作品で私が注目したのは、序盤の主人公の夫婦ジムとヒルダが思い出す第二次戦争大戦を描いたシーンでした。 ジムとヒルダにとっての第二次戦争大戦は子どもの頃の思い出でしかなくどこかのどかで懐かしく記憶していて、その回想として実際の戦争のモノクロの記録映像が4分割された画面に連続して映し出されます。 映像はドイツによるロ
3,600字です。 山田太一の小説を1988年に大林宣彦が監督した『異人たちとの夏』を現代のロンドンに置き換え再映画化。 この映画の大筋としては大好きな1988年の大林宣彦監督版『異人たちとの夏』をほぼ踏襲するかたちで作られています。 が大林版ではあくまで「主人公の自己肯定に至る過程」だけが物語の中核であったことに対し、今回のリメイクでは「死者側の心理への探求」という視点にも重点が置かれ、大林版よりもそれについてはわかりやすく描かれているように思いました。 まず一つ目の
※3,500字です。 化け猫のあんずちゃんと少女"かりん"とのひと夏の出来事を描く。 私が注目したのは、あえて描かれなかったラストシーンでした。 かりんは父の哲也と二人の"これから"を約束しながらも、お寺であんずちゃんと暮らすことを選択し駅から戻ってきます。 あんずちゃんを探すかりんの姿で映画は終わります。 私は一般的な見方とは少し違うのかもしれませんが、あの後かりんはあんずちゃんを見つけることはできなかった、あんずちゃんは静かに姿を消していたのではないか?と想像しま
※2,700字です。 ストリートミュージシャンの"キリエ"の力強く、しかし悲しみに満ちた歌声にのせ、彼女の壮絶な人生とともに今の若い世代の心の中にある言いようのない不安と絶望に支配された現実に光を当てる。 公開当初から高評価だったアイナ・ジ・エンドのさまざまな感情が込められた歌曲がやはりすばらしい映画でした。 岩井俊二監督作品は『Love Letter』以来でしたが、岩井監督と音楽の小林武史が「ミュージカルではない歌曲劇とドラマの中間的映画」として位置付けた作品として歌と
すべての創作者とそれを受け取る人に対する今を生きる人生賛歌。 私に一番刺さったキーワードは「最初のファン」という言葉でした。 藤野はずーっと学校新聞に4コママンガを描いているので、本当の「最初の読者」は学校じゅうの生徒や先生、父兄です。 そして、藤野は自分より画力の高い京本の絵を見てライバル視し、そして自分のマンガに自信を失い、いったんはマンガから離れます。 私が最初に心を動かされたのは、引きこもりの京本の家で初めて藤野と京本が出会い、藤野の予想とは真逆で京本が「藤野先
東京でトイレの清掃員をする一人の男性の日常を描く。 なんと濃密な2時間4分。 最初、毎日淡々とルーティンをこなしトイレ清掃に出かける主人公の平山の姿を延々と見せられ、いわゆる「退屈な映画か?」と懸念させますが、映画は完全にそんな予想を裏切ります。 まず前半は「平山」という人物像についてどういう人物なのかをとにかく想像させます。 トイレ清掃員という仕事をしながらも、かなりインテリであることが匂わされる平山。 トイレ清掃員の方を決して差別しているわけではないつもりなので、
次点は泣きの2本で ベスト10 (次点は泣きの2本です…) 1 夜明けのすべて 2 キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン 3 オッペンハイマー 4 落下の解剖学 5 関心領域 6 アメリカン・フィクション 7 ミッシング 8 デューン 砂の惑星 PART2 9 福田村事件 10 ゴジラ−1.0/C 次点 aftersun/アフターサン 次点 せかいのおきく 今年の上半期は健康上やいろいろな理由で鑑賞本数は一気に失速していますが、映画としてはオールタイムベストに入るよう
テレビアニメ『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』の正統な続編。 DESTINYから20年も経ってしまっての鑑賞なので、かなり忘れている設定などもありましたが観ているうちに意外と思い出せました。 DESTINYのラスボス・デュランダル議長の提唱した「ディスティニー・プラン」。 「ディスティニー・プラン」も忘れていたのは申し訳なかったのですが、世界を"アコード"という新たな超人類で支配しようと暗躍しているデュランダルの再来といえるファウンデーション王国の陰謀でだんだん
※2,000字になりました。 世界的な地盤隆起による災害の後、ソウル市内で唯一崩壊を免れたマンションでの住民たちのサバイバル。 この映画がデザスター映画であり、それに続くサバイバルを描きながら、実は「独裁国家」の成立と全体主義が支配していく過程を克明に描いていることは観ている人にはすぐにわかります。 特にイ・ビョンホンという俳優の持つカリスマ的な個性は、当初朴訥とした存在なのにどんどんカリスマ性を帯びた支配者になっていく、しかも内面に暴力的凶暴性を持つ"ヨンタク"の姿に
※2,200字です。 フィンランド、ヘルシンキに暮らす、もう若くはない男女が少しずつ近づいていく姿を描く。 お恥ずかしいのですが、私はアキ・カウリスマキ監督作品を観るのは本作が初めてです。 "作家性が強い"監督と言われている人だけに、自分の感性と合わなかったらトコトン合わないだろうなーと一抹の不安も感じながら鑑賞しました。 (ある方がXでポストされていましたが、"作家性"という言葉には観る側に創作者への先入観を植え付ける観る側の想像の自由度を制限するニュアンスが暗に感じら
※短めにするようがんばりましたが、2,100字になりました… ごめんなさい ナチスドイツ時代。アウシュビッツ強制収容所の隣に住む家族の平凡な生活を淡々と描く。 ホロコーストの"ある"側面。 映画の主人公はアウシュビッツ強制収容所の所長だったルドルフ・ヘス(1987年に刑務所で自殺したナチス高官のヘスとは別人)の家族の生活を追っていきます。 妻のへートヴィッヒ(ザンドラ・ヒュラー)が地元ポーランド人のメイドたちにも横柄な態度を取ったり、所長の妻として当然知っていたであろう
※6,000字になりました. もう自分の映画鑑賞記録、自己満足です。 6歳の娘が行方不明になってしまった夫婦とそれを追うテレビ報道記者の姿を描く。 物語は映画のA面として沙緒里と豊という娘が行方不明になってしまった夫婦のことと、映画のB面としてテレビ局の砂田のことが描かれています。 鑑賞後この二つの物語はそれぞれにボリュームがあり常に並行して描かれていることから、双方について描きたいものがある作り手の意図を感じましたが、最終的には現代社会の縮図としてクロスオーバーする仕組
※3,600字になりました。 20年前、トルコでの旅行を楽しむスコットランド人の父と娘の何気ない旅。 とにかくラストの切なさにあふれた余韻が強く印象に残る映画でした。 しかし正直に言うと、とてもわかりにくい映画であるようにも思います。 父娘の旅の様子は淡々と描かれていて、特にこれといった事件は起こりません。 その映画としての描写に二人が録画したホームビデオの映像が挟まれます。 この映画の描写を絶賛する感想も少なくありませんが、それはおそらくラストを見て複数回鑑賞した方
※3,400字になりました。 アメリカの砂漠の町「アステロイド・シティ」を舞台に繰り広げられる群像劇。 映画はエドワード・ノートン演じる脚本家が書いたお芝居の世界とその舞台裏で構成され、お芝居の世界はカラーで、舞台裏はモノクロで描かれています。 さらに観客は舞台裏のその外側であるテレビ番組として作品を見ているという三重構造になっているので、ときどきナレーターが現れいろいろなコメントを挟みます。 お芝居である架空のクレーターのある砂漠の田舎町「アステロイド・シティ」を描く