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大彦命と武渟川別命①四道将軍として
【3世紀中頃】に「銅鏡の文化」が北九州から大和にシフトしていき、そのころ纏向遺跡(奈良)にて古墳が作られ始め、古墳に銅鏡が埋葬されるようになります。
この「纒向遺跡」の成立が『実質的な日本の建国』と考えており、この仮説をベースにいろいろと調べています。
これまでの記事で、2世紀~3世紀 ごろの出来事と推察している以下の伝承について調べてきました。
★『孝霊天皇(7代)とその皇子』
皇子の1人:吉備津彦命(きびつひこ)・四道将軍の一人
★『垂仁天皇(11代)が丹波国と連携』
≒『彦坐王(開化天皇9代の皇子)とその一族』
子の一人:丹波道主命(たんばみちぬし)・四道将軍の一人
子の一人:日葉酢媛(ひばすひめ)
当初の予定では、ここからは『孝元天皇が物部氏と連携』について情報を集める予定でしたが、ここまでの記事で「吉備津彦命」や「丹波道主命」を書いていますので、残る2人の四道将軍『大彦命と武渟川別命』について先に調べていきたいと思います。
ちなみに「大彦」は「孝元天皇(8代)」の皇子とされており『孝元天皇が物部氏と連携』の調査にも関わっていきます。
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<崇神天皇(10代)の四道将軍>
『「崇神天皇(10代)」の御代に、全国への勢力拡大のため四道将軍を派遣した』という内容が『日本書紀』にはあります。
◯ 吉備津彦命(きびつひこのみこと)、
◯ 丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)
◯ 大彦命(おおびこのみこと)
◯ 武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)
過去の記事の振り返りとなりますが、
【吉備津彦命】は孝霊天皇(七代)の皇子であり、吉備国(岡山県)や伯耆国(鳥取県中西部)に多くの伝承が残っていました。
ただ「崇神天皇(10代)」に活躍するには時代的に無理があり、「崇神天皇(10代)」の業績を高めるための創作と考えています。
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(あくまで個人的な見解をあたりで入れてます)
【丹波道主命】は崇神天皇(10代)の1つ下の世代であり、時代的には無理はありません。
ただし、古事記では「彦坐王」の活躍だけが記載され「丹波道主」が四道将軍になることは書かれていません。日本書紀だけに「丹波道主」が四道将軍になることが書かれているというチグハグな記載になっています。
丹波国での戦いの伝承は「父の彦坐王による陸耳御笠討伐」だけであり、父が討伐後に統治した地に、再び征伐に行くというのは無理があります。
「丹波道主」は「父の彦坐王」と共に「陸耳御笠を討伐」しており、「彦坐王」と「丹波道主」のいずれかを四道将軍にしたてても良かっため、上記のような状態になっていると推察します。
また、「任命されたため討伐に向かった」のでなく、「討伐した」という実績が先にあり、記紀を取りまとめる際に「崇神天皇(10代)」の業績を高めるため「四道将軍に任命された」ということを後付けしたものと推察しています。
残る「四道将軍」が 父【大彦命】と 息子【武渟川別命】です。
「大彦命」は「孝元天皇(8代)」の皇子であり、「開化天皇(9代)」の兄弟でもある。
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そして記紀では「大彦命」は「北陸」地方へ遠征し、「武渟川別命」は「東海」から「関東」地方へ遠征したとされています。
これらについて 詳しく調べていきたいと思います。