宇佐伝承における神武東征①
【宇佐家伝承 古伝が語る古代史 (著)宇佐 公康 】(1987年発行)
という書籍をご存知でしょうか?
宇佐家とは、大分県にある「宇佐八幡宮」の社家として繁栄した一族です。
現在では、この書籍の新品は販売がされておらず、AMAZONなどで検索しても、中古書籍がプレミア価格で販売されています。
そのため読むことを諦めていましたが、街の図書館に置かれていることがあり、幸いにも読むことができました。
<書籍:宇佐家伝承古伝が語る古代史>
著者である「宇佐公康」は、1915年に生まれ、「宇佐家本系図」では【菟狭津彦命】の72世孫で、先代から一子相伝の「口伝書」と「備忘録」を引き継いだ。宇佐氏族宗家では最後に残った男系であり、このまま放置すると、この由緒の古い古伝も完全に終わってしまうと考え、少しでも精神的・歴史的なものを公表して残して置きたいと思い、執筆したとのことでした。
ただし、「著書が古伝の信憑性を確かめるため、文献資料に基づいて検討し、私見も挟んで考証し推考した」とのことでしたので、「過去からの口伝」であるのか? また「著者の考察・私見」であるのか? の線引が曖昧で、その辺りは考慮しながら読み解く必要がありました。
これまでの記事で紹介してきた「出雲口伝」関連の書籍と似た内容もあるため、一部を紹介したいと思います。
<菟狹族(宇佐族)の信仰>
ウサ族(菟狹・宇佐)は、アマツコヨミ (天津暦)、すなわち、月の満ち欠けや、昼夜の別を目安として、月日を数えたりするツキヨミ (月読)やヒジリ (日知・聖)、または、天候や季節のうつり変わりを見定めるコヨミ (暦)を知ることが天職であった。
肉眼で見る満月面には、濃淡の模様があり、この遠くて手に取って見ることのできない模様が、あたかもウサギに見立てられるところから、月をウサギ神として崇拝し、菟狹族と称するようになった。
したがって、ウサ族(菟狹・宇佐)の神はウサ神、すなわち、 月神である。
<神武天皇が東征を前に宇佐にやってきた>
宇佐家の口伝では、宇佐にやってきて、東征を目指した人物を「記紀」における「神武天皇(初代)」と表現されている。
※ちなみに一方の出雲口伝では、この人物を「物部イニエ王」と表現し、「崇神天皇(10代)」のモデルと表現している。
宇佐家の口伝では、
ウサツヒコノミコト (宇佐津彦命)が帰順の意を表するために、妻のウサツヒメノミコト (宇佐津姫命)を「神武天皇」に差し出して、寝所にはべらせたといわれ、これは当時の風習として、友好関係を保つ最高の歓待であり、 忠節を誓う儀礼でもあった。
そして、ウサツヒメノミコト(宇佐津姫命)は天皇の胤(たね)を宿して、ウサツオミノミコト (宇佐都臣命)を生んだ。
そして、後に宇佐津臣は宇佐家に入った。
<安芸国(広島)への遠征>
宇佐家の伝承によると、
「神武天皇」は宇佐の地に四年のあいだ留まった。
ウサツヒメノミコト(宇佐津姫命)は、神武天皇が宇佐を出立して、さらに東遷するにあたって随伴し、筑紫国の岡田宮に一年、安芸国の多邢理宮[たけりのみや] (埃宮[えのみや]ともいう)に六年とどまって、巫女として神祇に奉仕し、この地で「神武天皇」とのあいだに「ミモロワケノミコト(御諸別命)」が生まれた。
それからまもなく、ウサツヒメノミコト(宇佐津姫命)は病気にかかって亡くなった。
また、一年後には「神武天皇」もまた病気で亡くなったので、ウサツヒメノミコト(宇佐津姫命)と同じく、伊都岐島(いつきのしま)の山上の岩屋に葬ったといわれている。
伊都岐島(いつきのしま)とは神を斎く島という意味で、今の広島県佐伯郡宮島町厳島である。
●ミモロワケノミコト(御諸別命)は幼少にして父母を亡くしたので、父母を追慕するのあまりに、父母を葬った伊都岐島を神聖にして森厳な「神籬磐境」として祭祀を厳修した。
●ミモロワケノミコト(御諸別命)は、多祁理宮を根拠地として大陸の文化を導入し、統治経営に尽力したので、この地域は古の菟狭国の中枢となって繁栄するに至った。
※「北九州から東征を進めたが、近畿にたどり着かず、亡くなった」という伝承は、以前紹介した「出雲口伝」と重なります。
(つづく)