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大彦命と武渟川別命⑪越前エリア

 「大彦命」と「武渟川別命」の親子について伝承を調べています。
 大彦は 孝元天皇(8代)の皇子ですね。

 前回までの記事では「太平洋側」の「東海」に進軍した「武渟川別命」を調べてきましたが、今回からは、「日本海側」を進軍した「大彦」に戻って調べていきたいと思います。

  

 福井県にも「大彦」を祀る神社がありますので、ここで紹介したいと思います。

<舟津神社>(ふなづじんじゃ)

所在地: 福井県鯖江市舟津町1丁目

御祭神:大彦命
    猿田彦命
    孝元天皇 (大彦の父)

※福井県で「大彦」を祀る代表的な神社です。

『舟津社記』によれば、
 大彦命は、淡海より角鹿の津(敦賀津 ※敦賀市道口 付近)に赴き、八田という所に着き舟場より乗船して東進した。
 途中、塩垂の長という長老の教えをうけ、安伊奴彦の先導により深江という所に到り、(当時沼地だった鯖江の平野部一帯で)大彦命が舟を着けた場所で舟津と名付けた。
 この所にある山に上ると、先に消え去った長老に再び逢ったので、(鯖江台地の南に続く)この山を逢山(おうやま・王山)と呼ぶようになった。

 この長老こそ猿田彦命で、種々教導をうけ、その神示によりこの神(猿田彦命)を圭二太(御板・楯)の神として祀り、賊の挙兵の際にこの神(猿田彦命)に国中安寧を祈ると、虚空より佐波矢(鯖矢)が落下し賊の魁師にあたり、神示の如く剣に血塗ることなく平定の功をなしたという。

 成務天皇4年 市入命が勅をうけ大彦命を舟津郷に奉齋したのが創りと伝え、猿田彦命を祀る宮が大山御板神社(上宮)大彦命を祀る宮が舟津神社(下宮)である。

⇒現在の舟津神社には、大彦命が祀られ、その相殿に大山御板神社を祀っている。 そして、この神社は、王山古墳群の一部に鎮座している。


<王山古墳群>(おうざんこふんぐん)


 弥生時代(1世紀)~古墳時代中期(5世紀)に築造された現在総数54基の墳墓・古墳が確認されている。
 このうち1・3・4・7号墓は墳丘墓(方形周溝墓)と呼ばれる弥生時代後期(3世紀)の墳墓である。
 3号墓の周溝からは東海や近江地方の影響を受けた土器が出土しており、それらの地域との歴史的交流を物語っている。

王山古墳群パンフレット(PDF:2,138KB)


<池鯉鮒神社>(ちりふじんじゃ)

  ※ちりゅうじんじゃ とも

所在地: 福井県 福井市清水山町

御祭神: 大彦命

 「池鯉鮒神社」をインターネットで検索すると 愛知県の「知立神社」が多くヒットする。
 この「知立神社」は、かつて「池鯉鮒大明神(ちりふだいみょうじん)」と呼ばれていた三河国の二の宮(式内社)です。

愛知県の「知立神社」の創祀は社伝によれば、第12代景行天皇の時、日本武尊が天皇の命を受けて東国平定の折、「彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)、玉依比売命(たまよりひめのみこと)、神日本磐餘彦尊(かむやまといわれひこのみこと)」の四神を奉斎したのが始まりと云う。

 福井県の「池鯉鮒神社」は、この三河(愛知県)知立神社から勧請したと言われている。そして、越前福井(北ノ庄)藩の初代藩主である『結城(松平)秀康』が故郷の「三河(愛知県)」が勧請したと言われている。ちなみに、結城秀康は徳川家康の次男で豊臣秀吉の養子となりその後、結城家に養子に出されている。

 <ちょっと考察です>
 この福井県の「池鯉鮒神社」は、上記の経緯から考えると 当初の御祭神は、「鸕鷀草葺不合尊」などの四神だったと思われるが、何時からか、この地域では信仰の厚い「大彦」と変化したものと思われる。

 ちなみに、池鯉鮒神社の尾根には円墳が四基と、前方後円墳がある。この前方後円墳は、神社の本殿の敷地造成の時こわされて、後円部だけが残っている。

<日吉神社>(ひよしじんじゃ)

所在地: 福井県越前市横根町
御祭神: 四道将軍 大彦

「日吉神社」といえば、比叡山の山岳信仰を源流として「御祭神」は一般的には「大山咋神」となる。
 おそらく当神社の御祭神も、当初は「大山咋神」だったと思われるが、何時からか、この地域では信仰の厚い「大彦」と変化したものと思われる。

<松阜神社>(まつおか・まつがおか)

所在地: 福井県鯖江市旭町1丁目
御祭神: 間部詮房朝臣・間部詮言朝臣・間部詮勝朝臣
 伊弉册尊
 崇徳天皇
 大毘古命

 徳川幕府の第七代将軍「徳川家継」に御代に、将軍の生母「月光院」に仕える御年寄「江島」が粛清された「江島生島事件(えじま いくしま じけん)」に関連して、側用人の間部詮房(まなべあきふさ)が「新潟」へ、そその後「鯖江」へとお国替えとなった。
 その間部詮房(まなべあきふさ)、詮言(あきとき)を祀った受福堂が、松阜神社のもとになった。
 そして鯖江藩の藩祖間部詮房、初代藩主詮言だけでなく7代藩主詮勝がまつられている。

 明治15年、鯖江藩邸から萬慶寺に移転されていた受福堂とその門を間部家別邸の「松阜仙窟」跡に移築し、松阜神社と改めた。その際に、舟津神社の祭神大彦命(おおひこのみこと)らの神々を合祀した。

 この神社に出てくる「大彦」は「舟津神社」からの勧請されたものでした。

<余談ですが>

 5、6世紀頃、各地に国造が任じられ、「国造本紀」によれば、この地域には【高志国造】が置かれている。この【高志国造】は、阿閉臣の祖の子孫を定めたと伝えられている。
==以下、『日本書紀』より==
大彦命は是 阿倍臣、膳臣、阿閉臣、狭狭城山臣、筑紫国造、越国造、伊賀臣、凡て七族の始祖なり。
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<この記事のまとめ>

 福井県では「船津神社」を中心に「大彦」の伝承が残り、「越(高志)の国」の祖として、信仰の対象となっていました。


※ちなみに「福井県」では後の「継体天皇」(26代)の伝承も多くの残っていました。それはまたいつかの機会で。

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