彦坐王の血統⑥籠神社の神事に出てくる「丹波道主」
「彦坐王(日子坐王:ひこいます王)」の一族について伝承を調べています。この「彦坐王」は 開化天皇(9代)の皇子ですね。
その息子で最も有名なのが「丹波道主」で崇神天皇(10代)の御代に四道将軍となる人物です。
「彦坐王」とその息子の「彦多都彦命(比古多多須):丹波道主」は丹波に多くの伝承を残しています。
この「丹波道主」については、丹後半島の「籠神社」の伝承にも登場する。そこで、この記事では、「籠神社」の伝承について掘り下げたい。
<籠神社の特殊神事・御陰神事>
「籠神社」の伝承によれば次のようにある。
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当神社の御神幸の神事は「御蔭神事」と申し、所謂「御生れの神事」(みあれのしんじ)として當神社第一の神事である。
海部氏の極秘伝に依れば、之は奥宮の元初の御祭神『豊受夫神』の御生れの祭りとして発祥したが、後に『豊受夫神』を祭った『海部氏』の祖神『彦火明命』が、宿縁により現身の『丹波道主命』となって天下蒼生に御稜威を垂れ給う神事と伝えられる。
前記のような両神の関係を、多次元同時存在と宮司は名づけている。
この御神幸(お渡り)には、『太刀振神事』と云う典雅雄壮な特殊神事が遠く貞観年中から行われている。更に神代からと伝えられている鵠鶴囃し(ササバヤシ)の古儀も行われるが、之は爺と孫(男子)、即ち祖孫共演の笹竹のはやしであり、弥生期農耕社会の一つの習俗を、現代に伝える極めて貴重な神事であると云われている。
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⇒【『海部氏』の祖神『彦火明命』が、宿縁により現身の『丹波道主命』となって】とある。
この内容は何を意味するのでしょうか?
そもそも『丹波道主命』は「開化天皇(9代)」の孫とされている。 その方が『海部氏』の祖神である『彦火明命』の生まれ変わりとなって生まれてきたという意味でしょうか?
【『丹波道主命』が丹後地方を統治することになった際に、スムーズに統治が進むように、丹後半島の地神である『彦火明命』が「神憑り」する儀式をおこない、信仰の力をかりたもの】と推察します。
ここで1つ疑問なのは、「開化天皇」の孫である『丹波道主命』「彦多都彦命(比古多多須)」が何故、『海部氏』の祖神『彦火明命』の「神懸かり」ができたのでしょうか?
一般的には【御神の「子孫」または特殊な「巫女」などが、そういったことができる人物】となります。
と言うことは『丹波道主命』は『海部氏』の祖神『彦火明命』と血縁関係があったのでしょうか?
このようなことを考えると、「彦坐王(日子坐王)」の父方、つまり「開化天皇(九代)」のルーツ、つまり大王家のルーツが『彦火明命』にある可能性を考えたくなります。
もしくは「彦坐王(日子坐王)」の母方のルーツが『彦火明命』ということなのでしょうか? そう考えると、「丹波」の竹野姫にルーツがあるのかもしれません。
「彦坐王(日子坐王)」が「竹野姫」の子と仮定すると「彦坐王(日子坐王)」が『海部氏』の一族である日本得魂命と協力して陸耳御笠を討伐したことにもうなずけますし、丹波大縣主「由碁理」が君臨していた「丹波国」にスムーズに入り込み、「丹波道主」として統治することができたことも理解できます。
いずれにしろ、【『海部氏』の祖神『彦火明命』が、宿縁により現身の『丹波道主命』となって】という伝承は、古代史ロマンの重要なキーワードになりますね。
<余談ですが・・。宗像大社を連想させる>
またまた少し余談です。
少し話は変わりますが、籠神社ので伝承によると『海部氏』の祖神である『彦火明命』は 「宗像三女神」の一柱「市杵島姫」を妃にしています。
そして、「市杵島姫」は九州北部にある「宗像大社」において3姉妹で祀られていることが有名です。
この「宗像大社」にも 似たワードが用いられていることが気になりましたので、紹介します。
『1つ目の共通ワード』:道主
宗像大社では、宗像三女神は「道主貴」(みちぬしのむち)という美しい言葉でも呼ばれます。『貴』(むち)とは神に対する最も尊い呼び名で、「最高の道の神」であるとも日本書紀には記されている。
⇒『道主』というワードが共通しますね。
『2つ目の共通ワード』:みあれ
宗像大社にも「みあれ祭」という神事がある。毎年10月の秋季大祭に行われる神事です。 航海安全や大漁などを願って行われる祭礼とされているが、辺津宮本殿に三女神が集まるために、中津宮・沖津宮まで神迎えする神事であり、海上神幸が行われている。
⇒「籠神社」の神事と「みあれ」というワードが共通します。
⇒『宗像大社』と 丹後半島の『籠神社』のつながりを感じさせるワードです。