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彦坐王の血統①垂仁天皇の后妃を輩出

【3世紀中頃】に「銅鏡の文化」が北九州から大和にシフトしていき、そのころ纏向遺跡(奈良)にて古墳が作られ始め、古墳に銅鏡が埋葬されるようになります。この「纒向遺跡」の成立が『実質的な日本の建国』と考えます。この時代の日本列島について、どのようなことがあったのか把握するために、いろいろと調べています。

 直近の記事では『孝霊天皇(7代)とその皇子』の伝承について調べてきました。

 ここからは キーワードとして『垂仁天皇(11代)が丹波国と連携』について調べていきたいと思います。


 垂仁天皇(11代)の后妃を図解すると以下のようになります。

彦坐王と丹波道主から、后妃を輩出していることがわかります。


<彦坐王と丹波道主の関係は?>

「丹波道主」は、崇神天皇(10代)の四道将軍として登場します。
彦坐王」は、知名度が低く、歴史好きでも知らない人が多いと思います。この「彦坐王」開化天皇(9代)の皇子であり、丹波道主の父親にあたります。

 彦坐王(日子坐王)と丹波道主は、「丹波」地方で多くの足跡を残しているため、血筋的には「丹波 竹野媛」の子孫とする方がしっくりと来るのですが、記紀では、和邇氏の系統の母を出自としています。

 ただし、「日本書紀」には彦湯産隅命を丹波道主の父とする別伝の記載もあり、「丹波道主」は「丹波 竹野媛」の孫である可能性があります。

これまでの記事から 年代をこの図のように推察しています。



<和邇氏との関連について>

 開化天皇(9代)の皇后は「物部一族」である「伊香色謎(いかがしこめ)」 ですが、別の妃として「和邇一族」から「意祁都比売(おけつひめ)」を迎えています。


 そして、父である開化天皇(9代)も、この和邇氏の勢力圏内にある奈良市北部の「春日の率川宮」に都を移し、死後も「春日の率川坂上陵」に埋葬されている。開化天皇(9代)が和邇氏と深いつながりがあったことが伺えます。

 そして、開化天皇(9代)と和邇一族の「意祁都比売」との間に生まれた皇子が「彦坐王」です。

 彦坐王和邇氏と縁が深く、母が和邇氏の出自であるだけでなく、母の妹「袁祁都比売」を自身の妃にしています。
(※姉妹で名前が紛らわしいのでご注意ください。)


記紀に記載の系図

彦坐王の妃の一人に「沙本之大闇見戸売(さほのおおくらみとめ)」 がいます。この妃は「春日建国勝戸売の娘」とされています。
 名にある「戸売(とめ)」とは「戸畔(とべ)」と同様に「女性族長」という意味です。そして、後の世代で「春日氏」は、奈良市北部に勢力を伸ばした「和邇氏」の支族となります。そのため、ここの「春日」も「和邇氏」と関連している可能性があります。 その場合は「和邇氏の女系支族」から妃をもらったこととなります。そして「沙本」は今も奈良県の地名に残る「佐保山」周辺を指すと考えられています。

 つまり彦坐王(日子坐王)は、和邇氏の母から生まれ、和邇氏の系統から妻を娶っているだけでなく、さらに「和邇氏」と関連しているかもしれない「女性族長」を妻に娶っていることになります。

 開化天皇(9代)彦坐王(日子坐王)は 奈良盆地における「和邇氏」の拠点で活動していたことがわかります。




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